『安部ユキヒロの憂鬱』完成。安部行洋が碇シンジに見えた日。

新作ドキュメンタリー作品『安部ユキヒロの憂鬱』が完成した。
撮影開始から丸一ヶ月、撮影と編集を続け、こうやって発表の機会が持てることが素直に嬉しい。感謝しています。

この作品を語る前に、自分のことについても言及しなくてはならない。簡単に言うと何故、「僕がこの作品を作るに至ったか」という経緯である。

 昨年10月7日、私は以前勤めていた会社で残業をしていた。ちょうど3ヶ月にわたる営業研修を終えたばかりで、営業マンとして一人だちをしていたころであった。しかし一方でやるせなさを感じていた。この前日に拙作『ガクセイプロレスラー』がバンクーバー国際映画祭で上映されていたから。本来であれば現地にでも行って、海外の人が観た感想や熱を体感したかったが、現実はしがない会社員であるがために、自由に身動きが出来ない自分に腹が立っていた。チャンスをみすみす逃している。大学で「卒業制作は社会へのデビュー作」と散々言われたのに、会社員になったことで、デビュー作の晴れ舞台を観れないことの矛盾と皮肉が辛くてたまらなかった。一ヶ月前に決まったバンクーバー招待に嬉々しながらも、生活は今の仕事に対する疑問で一杯であった。その日も案の定、残業で残っていた。毎日、先輩に研修の「報告」をしなくてはならないから。しかし、この「報告」はただひたすら理詰めで説教をされる苦痛でしかない時間であった。毎日「嫌だな」と思いつつ、その日の「報告」を待ちながら自分のデスクのパソコンを開いた。たまたまDDTのホームページを覗いてみたら、DDT48総選挙のust中継がやっているという。DDT48はAKB48総選挙のパロディ企画ながらも、選手の認知度や、期待感、これからの未来への展望など、そのレスラーの支持率がファンの投票によって剥き出しになる画期的な企画であった。会社のPCからこっそりとust中継を見ながらも、その企画の熱は否応無しに伝わってきた。総選挙第1位は男色ディーノ選手であった。ディーノさんは発表後のコメントで「夢」というキーワードで熱くこれからのDDTの展望を語っていた。「夢」というキーワード。それは僕が最も渇望していたものかもしれなかったから。研修中に先輩に「俺には夢とか別にないから。給料も今の生活にも満足している。けど、お前がショボいことやってボーナスの額が減ってでもしたら、タダじゃおかないからな」ということを言われたことがあった。僕はその先輩の「夢がない」という言葉に心底落胆した。仕事も半人前の自分が持つ感想であってはいけないのかもしれないが、「なんてつまらないんだろう。」と思った。今の若者は安定志向がさらに強くなっているという。自分も就職活動をした際のは、ある種の安定にすがりたい気持ちで続けていた部分。何となくテレビにはその安定+やりたいことが出来るような「夢」も同時にある気がした。だけどハッキリとここでは「夢」を追いかけることが出来ないと分かった。単純に自分の希望部署であった点がクローズアップしているだけなのかもしれないが、少なくとも自分が感じた「居場所はここじゃない」という感じが強まる要因にはなった。そんなこともあってディーノさんが口にした「夢」という言葉は、心にグサりと刺さった。人気のないオフィスにただパソコン画面を見ながら、僕は呆然としていた。

 結局会社は辞めた。その先の進路は完全にノープランだった。人事部に「どうするの?」と訊かれても「何も決まってません」と答えるしかなかった。その後何かに解放されたように、プー太郎になって映画を見まくっていた。映画館の暗闇は自分にとっては唯一の拠り所になっていた。熱田のイーオンで飯を食っていたとき、ケータイの着信があった「男色ディーノ」と画面には表示されていた。ディーノさんには学生時代からBOYSに出場したりと、何かとお世話になっていた。どうしたんだろうと思いながら電話をとった。「夢ちゃん、会社辞めたって聞いたよ。バイトでも良いから、DDTで映像やらない?坂井や藤岡がいなくなっちゃったりして、人手が足りないんだ」と。僕は「うわー、もう会社辞めたこと知ってるなんて情報は早いなー」と思いつつも、今後のことが白紙だった自分にとっては唯一の希望にもなった。「やってみたいです」そう答える自分に「いきなりだけど明日とかどう?」と答えるディーノさん。「まだ名古屋にいるんで、明日はちょっと無理そうです。一旦東京に帰るのでまた連絡します」と言った。奇しくもその翌日は『ガクセイプロレスラー』主演であるエロワード・ネゲロこと冨永君の入団会見が行われていた日だった。

 一旦、親父の顔を見るために東京に帰った。その際にディーノさんにも会った。『ガクセイプロレスラー』を見てくれていて、何となく僕のやりたい事を察してくれていた。ディーノさんは「マッスル」に相当する新しい企画がやりたくて、DVDで通販で売るドキュメンタリーをやりたいと言ってくれた。その際に出た被写体の候補に「安部行洋」が挙がった。「アイツはダメだんだ。だからそのダメさも含めて、彼が浮上するキッカケになるような作品になれば」とも。僕は名古屋に住んでいたときに、今池ガスホール大会で見た安部行洋vsケニー・オメガを見ていたが、特にそんな印象は持たなかった。とりあえず年明けにその企画を始めようということで話はまとまった。

 ディーノさんから、「急だけど次の名古屋巡業から撮影して」と言われた。これまた妙な縁でいきなり名古屋に戻るハメになった。会場の金山アスナルホールは自分が住んでいた家の最寄り駅にある会場だった。名古屋にはしばらく行かない、そう思っていた自分には意外な出来事であった。

 安部君に会う。面識は既にあった。自分も久しぶりの撮影でいささか緊張していたが、カメラの前で安部君は雄弁にアニメのことについて語り始めていた。何だか安部君から話のキッカケを作ってもらっているようで申し訳なさも感じつつ、この撮影自体は歓迎してくれているようで嬉しかった。しかし一向にアニメのことしか話さない安部君に、僕は内心いらだち始めていた。プロレスのドキュメンタリーなのだから、プロレスについて何か言ってもらわないと、そんな思いが巡り始めていた。安部君のプロレスに対する意識が聞きたかった僕は、何で安部君が「ダメなのか」を他のレスラーに聞き始めた。この作品の中で、安部君は気の毒なくらいに、他の選手からの批評をあびることになる。それはまさしく安部行洋というレスラーが伸び悩んでいる「壁」であり、それを超えなければますます後輩選手からの突き上げにあうことを意味していた。カメラを回し続けれながら、安部君はときどきポツりとプロレスに対する気持ちを語る。しかしそれは安部君が現状のままでは、その壁を乗り越えられないことも提示してしまっている言葉であった。その中で安部君は自身のコスチュームの元ネタである「新世紀エヴァンゲリオン」の主人公、碇シンジの台詞を引用する。

「僕はいらない子なんだ」

そう漏らす安部君が、ただのアニメの台詞ではなく、本当に自分が思っている感情のような気がしてならなくなっていた。

新世紀エヴァンゲリオン」90年代に突如としてあらわれたこのアニメーション作品は、他人との接触を好まない内向的な少年「碇シンジ」がエヴァンゲリオンパイロットに任命され、「使徒」と呼ばれる謎の敵と世界の命運を託され闘い続ける物語だ。

安部君と僕は1985年生まれ。物心が付く頃にはバブルが崩壊しながらも、物質的にはそれなりの豊かさを享受してきた世代だ。「新世紀エヴァンゲリオン」が放映された頃、小学生だった私はテレビ東京で放映されるこの作品をリアルタイムで見ていた。話の内容がほとんど分からずも、何度か放送された再放送をビデオに録画し、中学高校と進学するにつれその都度、毎回自分の中でエヴァブームは起こっていた。コミニュケーションが上手くいかない少年が突然、多くの人のために戦わなくてはならなくなる。当時の若者はそんなシンジや他の登場人物たちに激しく感情移入したという。繊細な心理描写、ロボットのガジェットなどが不安定な時代とマッチし、エヴァは爆発的なブームを巻き起こした。安部君も僕もおそらくそのブームにリアルタイムで参加していた。その後の劇場公開や、パチンコをキッカケにハマる人もいるだろうが、自身が少年だった時期にこの作品を触れた意味合いはそれとは異なり、大きな意味を生む。

安部行洋はそんなエヴァの「碇シンジ」の如く繊細な感情を持っている。冒頭で過去に野球をやっていて、チームメイトの「裏の感情」を知り野球が嫌になったと語る安部君がいる。それがトラウマになり、他人と本音で接触することを拒もうとする。「新世紀エヴァンゲリオン」で使われる「A.Tフィールド」と呼ばれる防御壁に例え、自分には「A.Tフィールドのような心の壁がある」と語る安部君。奇しくもその壁こそが安部君が「プロレスラー」として悩み続けた「壁」でもあることが段々と明らかになっていく。

そんな安部君は突然ある決意をする。

DDT退団」

このドキュメンタリー企画そのものを否定するかの如く、その突然の事実に僕は驚く。偶然にもDDT事務所にいた私は契約更改後の事務所を急遽iPhoneで撮影する。落胆するDDT勢。「もっと何かしてやれなかったのか?」「やっぱり現代っこなのか」そんな思いが彼らを錯綜する中、このドキュメント企画のお蔵入りが検討された。

お蔵入りは勘弁だった。何故ならこの作品に僕は懸けていたから。会社を辞めて、どうしようもない失意のどん底を、この企画が僕を救ってくれた。ある意味安部君という存在が僕を奮い立たせた。この企画を成功させたい、そんな思いで今日までやってきた。だからこれで終わりにはしたくない。むしろ会社を辞める「決意」を自分でも知っている以上、安部君が何を思っているのかがもっと知りたくなった。だからまだ撮ろうと思った。

1.30DDT後楽園大会。安部君のDDTラストマッチ。安部君はコスプレに身を包んでいた。彼がコスプレで入場をするこだわりは作品内でも随所に語られている。試合中に涼宮ハルヒの憂鬱 のエンディングテーマ曲「ハレ晴レユカイ」が流れ、サビ部分を踊らなければ失格という安部君有利の試合。その試合でこの日導入されたLEDライトに照らされながら、生き生きとダンスをする安部君の笑顔に、カメラ越しで何だか涙が溢れてきた。

某日。ドキュメント企画の続行が決定。撮影初日にアニメの話になると生き生きとする安部君に「アキバで撮影しようよ」と言った事があった。その約束を果たすべく、僕と安部君は2人でアキバの街を歩く。安部君の「いつものコース」に案内されながら、「アニヲタレスラー・安部行洋」が誕生した経緯が頭の中できっちり整理出来た瞬間だった。

しかしそれでもプロレスに対する「想い」を語らない安部君に僕はどうしていいか分からず、途中までの映像を男色ディーノアントーニオ本多の両名に見せ作品について相談する。アントーニオ本多氏は安部君のプロレスに対する姿勢に辛辣な言葉をなげる。
「プロレスは感情を表出するもの」
それが彼に欠けている「何か」であることは明らかであった。このまま終わりにすべきではなく、彼がプロレスで「本当の感情」を出す場を作るべきだ。そう結論に至った瞬間であった。
その「場」を我々はセッティングする。ある男とのシングルマッチ。安部君がDDTを辞めた事実を各々が受け止めながら、安部君の勇姿を見届ける。

泣き崩れる安部君。自分がレスラーとして必要な「何か」が見えた瞬間、自分がプロレスの素晴らしさに改めて気づいた瞬間。
僕も彼に強く感情移入してしまう。会社を辞めた自分、同い年で共に「エヴァ」に心酔したこと。始めてDDTに参戦したとき、安部君が優しく声をかけて、緊張をほぐしてくれた事。

彼は優しかった。であるが故に「レスラー」として必要な「何か」も欠落していた。
だが、その優しさは多くの人の胸に刻まれている。安部行洋がいない興業。それはレスラー仲間に「安部ちゃん」という存在の大きさを残酷なまでに通達する。皆が「安部ちゃん」を愛していた。

観客のいない会場。眩いライトに照らされながらも、一心不乱にDDTでプロレスをしてきた彼が「まだ旅の途中だから」と語り、エヴァンゲリオンを模したコスチュームに身を纏い、果敢にエルボーを打ち続ける安部行洋が碇シンジに見えた瞬間だった。

大学時代に授業で佐々木成明准教授がこう言っていた。
新世紀エヴァンゲリオンは新劇場版という形をとって生まれ変わった。ベーシックな物語がありながら、形を変えて再生産される。同人誌など、他者にも影響を与え、作品が生まれ続けている。それはシェークスピアのようだ。新世紀エヴァンゲリオンという作品は真にシェークスピアのような作品になった」

ふとこの言葉を思い出し、この作品を作り終えた今、『安部ユキヒロの憂鬱』は碇シンジがいたからこそ生まれた「安部行洋」というプロレスラーの物語。言わば「新世紀エヴァンゲリオン」のスピンオフだったのかもしれない、と思うようになったのだった。


余談だが、この撮影に参加したアントーニオ本多氏が最後の試合でレフェリーを務めながらも、興奮のあまり私のカメラを取り上げ、レフェリーをしながら撮影していたアントーニオ氏。しかし取り上げた際のショックでカメラがナイトショットモードに切り替わってしまい、ほとんど何が映っているのか分からない映像になった。もう一つのカメラを駆使して急遽対応したが、その事実が分かったアントーニオ氏の凹みようと言ったら半端無かった。「プロレスは情熱」と語るアントーニオ氏だが、その情熱が溢れ過ぎては元も子もないということを身を持って痛感した瞬間だった。そんなアントーニオ氏も現在は自主映画も撮影しており、私もその撮影に参加しておりますので、何かの機会に発表出来たらと思います。ボツになったアントンさん主観映像もどこかで見せれたら。


長文になりましたが、『安部ユキヒロの憂鬱』という作品が多くの人の目にとまることを願ってやみません。自分にとってかけがえのない作品になりました。この作品を作るキッカケをくださった男色ディーノ氏をはじめ関係者の方々に深く感謝すると共に、この作品の被写体となった勇気ある青年、安部行洋に「ありがとう」と言いたいと思います。


『男色牧場クラシックvol.1〜安部ユキヒロの憂鬱〜』は2.27DDT後楽園ホール大会で発売します。


2011 2.24 今成夢人