映像作家

■今日は会見を二つ撮影し、編集アップロード作業。アントンさんの吐き出す言葉の数々に、プロレスを好きになったものの、同時に好きになったが故に狂った人生のようなものを見た。ユニオン会見では新高木三四郎選手が完全にその空間を掌握。その場でその瞬間に放つまさにプロレスでしか見る事の出来ない面白さに満ち溢れていたように思う。

映画芸術を読む。論者の姿勢、及び批評とは「こういう姿勢」で望まないとのそれぞれであり、また同時に好みでもあると思う。ただ一言言えるのは偉いのはこの分厚い本ではなくて、この本を作らせる事になった一連の作品群であるということに、改めて実感させられる。震災以後の姿勢としてどのような作品を支持し、運動を起こしていくのか、それは批評と作品が連帯して起こしていくことなのだろう。デジタルの問題も含めて、メジャー、インディーの構造はあるにせよ、まずは作品を創作することから始まるのだ。

■最近はまたプロレスが好きになった。何だろうな、仕事が充実しているからなのか、人から順風満帆だと言われる事もあるが、それなりに辛い思いもしてきたし、上手く行かない事もたくさんしてきた。そういう意味で今の仕事に一応落ち着いた事は腑に落ちるというべきなんだろうか。

確かに考えると学生時代に感じたあるストレスがない。何というかプロレスを広めたいというか、学部の中でプロレスという題材をただ一人で背負い、半ば無理矢理にでも異種格闘技戦の如くプロレス代表のような出で立ちで自分はいつもその戦火の中にいたような気がした。そういう意味では迫害のような気持ちにもなり、いつも一橋大や帝京大の学プロ仲間というミニマムな世界の防空壕に逃げていたのだ。だが、私は彼らに報いた。卒業制作で出した結果は好きなものを肯定すること、自分たちのミニマムな世界を全力で支援することだったに他ならない。僕が愛した仲間と、愛した空間を思いっきり肯定してあげること。優しく包んであげること。多分僕が大学4年間で結実したことってたぶんそれなんだと思うのだ。多分僕は人に厳しくすることが出来ない。それは多分同時に自分自身にもそうなのかもしれない。それが甘さだと言われれば、そうなのかもしれない。しかしこの生き辛さにおいて、共通出来る趣味や生き甲斐を感じられる仲間がいることが、どれだけの救いになるのだろうか。プロレスが仕事になることで、よりそう感じるようになった。たぶん僕にはプロレスがある。プロレスが好きだから、プロレスによって救済されたから今がある。『ガクセイプロレスラー』はそういう作品だった。

ひらめいた。次回作のタイトルは『ラブ&レッスル』だ。何となくだが、だがこの響きだと思った。僕らは不器用だけど、僕らはプロレスのように自己演出することでサバイブしてきた。受験会場に行くときもテーマ曲が鳴り響き、僕はどのような決戦も「プロレスのリング」のように想起することが出来る。たぶん僕がセルフドキュメントを作るということは世の中をプロレスに当てはめようとするだろう。良いプロレスをするということは、時にセックスにさえ例えられるかもしれない(ガクセイプロレスラー)では。では『ラブ&レッスル』ではどうなるのか。それは僕自身のリアルな生活から派生される愛だの恋だのと直結するだろう。それでも僕は自分がプロレスラーのように振る舞うであろうし、そしてレスラーのように受けきるだろう。

レスラーは逃げない。相手の技を受ける。果たしてこの美学は「愛」なのか?その答えを見いだしたくなった。

僕はレスラーではない。映像作家だ。だが間違えないで欲しい。映像でプロレスをしようとしていることを。精神はレスラーだということ。「The Wrestler」が生んだ映像作家だから、その答え合わせを僕はいつだってするだろう。

ちなみに「プロレスラブ」という言葉とはちょっと違うと思っている。たぶん。違いはもうちょっと普通に映画寄りという点において!

追記:気持ち悪い文章だ。日記なんて安直な自己啓発になりかねない。本当に気持ち悪い。ラブ&レッスルなんてタイトルも気持ち悪過ぎて不採用にしたい。プロレスの過剰な思い入れも気持ち悪いな。