『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、

映画の日。しかしそれほど映画を見たいという気にもなれず。しかし映画館に行く。

■新宿で見ていたが、人が多過ぎたので府中に移動した。府中に移動したら移動したで地元の子供たちやらなんやらで賑わっていた。だけども客層が一気にダサくなるのがちょっとホッとする。自分もこんな人間だったから。新宿まで映画を見に来る人は時としてハイセンス過ぎて、疲れてしまう。

■TOHOシネマズ府中『ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬』監督: オリヴァー・パーカー.
Mr.ビーンが好きだったんだと再確認した。007のパロディとして面白かったというよりは、往年のMr.ビーンのギャグに対して笑っていたんだと思う。あの椅子が上下してしまって何とか誤摩化そうとするあの表情とか、意外な乗り物とか、口紅を塗らなくちゃいけなくなったりとか、ビーンのテレビシリーズの焼き直しとさえ思わせるけど、やっぱり面白い。観客は子供連れのお母さんたちもいたけど、字幕作品なのにウケも良かった。どうしてコメディ作品を優先して見てしまうのだろうか。笑いたいのか、あまりテレビを見なくなってしまったのか。分からないけど。

大田光の本を買った。久しぶりのタレント本だ。だが面白い。たぶん大田さんは近い将来映画監督になるだろう。松本人志さんも映画監督になり、気鋭のコメディアンは何故か映画監督になっていく。でもそれは仕事で凄い結果を残した人だから出来る術であって、私のような何もない人間が作る映画など2万パーセント面白いわけがない気がしてきた。だって仕事で結果を残してきた人たちが作る作品と、私の短い26年の目立たない仕事と比べようがないし。素人みたいなもんだ。とてつもなく自信などがなくなるし、しょうもないことを日々考えていながら、一体映画など作ろうとしている事が正解なのかどうかも分からない。それでもデジタルの恩恵から「映画のようなもの」を作る権利は一応持ち合わせているらしい。とりあえずゆうばり映画祭とかに処女作が参加した事により、ごくたまに「監督」と呼ばれることもある。だけど監督と呼ばれるほど何か考えているとも、センスがあるとも、才能があるともとても思えない。そして血のたぎるような努力が出来るとも思えない。じゃあ一体何が出来るんだろうと考える。もう本当に実生活を切り売りすることくらいしか思い浮かばない。コントとか、漫才とか出来る気もしないし、かといってもう一度レスラーになれと言われても怪我が怖くてたぶんリングに立てない。だからたぶん「映画っぽい」ものを作ることしかないんだと思った。そういえば中学時代には爆笑問題の日本原論を何度も読み返した事を思い出した。軍団ひとり君はR1グランプリの一回戦を突破したらしい。彼が意識しているポップさとベクトルを伺えば腑に落ちた。彼はいつだって嫉妬の対象だが、やはり学生プロレス最後の相手に相応しい才人であった。じゃあ僕は何を目指すのか。ここいらでハッキリさせておきたくなった。

大田さんの本を読んで思ったのは高木さんの本だ。言わばこれは「自分はこう思っている」という持論本だ。だから全ての人がそれに当てはまるわけではないし、そこに書かれていることが全て正解だとは思わない。最近は持論本をビジネス書として売り出し、「俺みたいにすれば人生は変わる」という本が多く出たが、どれも参考にならなかった。持論を一般論に応用するのはよほどの人間か、哲学者ではなければ無理ではないか。だから持論で留まっているのがたぶん正解だと思う。その中で共感するものがあって、自分に活かせるものがあればサンプリングすれば良い。

高木さんがたぶん自伝に近い形の持論本を出されたのが恐らく30代半ば過ぎだと思う。インディープロレス団体を率いて業界の中心にすらなった団体の成功や失敗が書かれた本は、かつて見た以上にその著者が自分の社長であることでより実感が湧く。高木さんが凄い点は言うまでもないけど、いい加減、僕も良い形で影響を受けた結果が欲しいなと思うようになった。それは古武さんという師匠と一緒にいた1年を見てもそう思う。二人とも自身の仕事を経験して根付いた持論を持ち、それがいかに理にかなった上で、そして時に特別な業界に身を置いている上での経験値として確信を持ち、僕に教えてくれる。

TwitterSNSで誰もが意見を表明出来る時代になった。僕もそれに参加してきたが、時として自分のバカさや、勉強不足を露呈することにもなった。あたりまえだが、それは怒られる事に他ならない。26の若造が何か分かった口を言えるほどに、仕事も恋愛も経験していないはずだから。そんな不確かさを肯定出来るほど甘いものではないだろう。

しかし持論を一つずつ構築していかなければ、同時に埋もれてしまう。古い持論がいつまでも通用する世の中のスピードではなくなってしまった。驚異的なスピードでシステムが日々更新され、技術も進化していく。僕ら若者はたぶんそんな根拠のなさをどこかで肯定していかなければ、上手く生きられないようになってしまった。だから自意識や不安定な心理がインターネット上にウヨウヨしはじめてきた。それは身近な人間を見ていてもそう思う。

恐らくだが、高木さんも古武さんも若い頃からほぼ「実践」ベースでの持論を構築していったに違いない。だから二人は業界の最前線に立ち、そして僕ら後輩の指導もしっかりしてくれている。そういう面倒を見る事や、僕らと会話する事を怠らないことにリスペクトを隠せない。だから、ぼちぼち言う事を聞くだけじゃなくて、意外なことをしないとイカンのだと思う。

たぶんこのブログを日々付けているのは、根拠のないことを書き連ね、批評とも言えない代物の「感想」という雑文たちだ。だけどもそうした雑文を書いたことが、後から振り返り「痛いな」と思わせたり、同時にたぶんそれは「持論になりうるもの」になることを再確認させる作業なのかもしれぬと思ったりもした。まぁ何はともあれ小学校の文章作成の基本は「読書感想文」なのだから、それを繰り返していくうちに、そのうち良い事があるだろうと思ってまだこうして良い大人になっても「読書感想文」を続けているのでしょう。

自分が高木さんや、古武さんになれると思わないけど、目指さないといけないし、少なくとも自身を持って「持論」を持てるようにアンテナを張らねばと思った。だからお金払って映画や本をみているのかもしれない。無料だと書く気が起きないから。そういう意味ではこれを書いているという事自体が随分とお金のかかっていることなのかもしれない。実際のところ貯金がゼロなので。まあいいや。

■古武さんにtwitterのmentionで君が求めているものは「共感」だと書かれた。

全くその通りで、その話が大田さんの本にも出てきた。何故表現をするのかというのは「共感」を求めるからであり、その共感が中々得られないから難しいということでもある。古武さんとのVの違いはそれらの共感に至るまでのサイコロジーの構成や、編集、物語の構築に至るまで、何から何まで僕が勉強不足であり、経験不足に他ならない。

「もっと色んな辛い思いや経験をした方が良い」

と言われる。その通りだと思う。だけど先輩が「俺はこう〜した」と言われると違和感を感じる。それはその時代だからそうだった部分が多分にあるわけで、僕らの時代の生き辛さってまた違う部分だったりするから、そこはすんなりと「うん」と頷けなかったりする。難しいのだが、その辺りの悩みが行ったり来たりしながらも、やっぱり共感が得られないのが何とも悩ましいことだ。

大田さんがテレビが一番「アート」だと言ったことに何故だか共感してしまった。僕自身が忌み嫌うテレビだけど、実際のところそこでウケている信頼感は閉ざされている現代アート業界よりも遥かに健全だと思う。(たぶんだからDDTにいれる気もする)。

どこかでウディ・アレンのように人生を諦観している姿勢も共感出来た。いつかは死ぬけど、記憶に残っていたいとか。田中さんが全く変わらないことに対する「悩みがなくていいな」と思う感情であったり、学生時代に詩を書く事で、その場の感情とやり過ごすことが出来ていたり。

この本で一番のエピソードはチャップリンと淀川さんの話だ。「時は偉大な作家である」というチャップリンの映画のとある台詞を引用している。大田さんが学生時代に苦痛だった5分間の休み時間。友達もいないその時間はどれほど長く苦痛に感じられたかが書かれている。と、同時に坂本龍馬が30歳までじっと我慢していた遅咲きだったことにも触れている。しかしその苦痛な時間はその先の時間を想像することで、少しばかりか回避することが出来る。

僕も長くて辛かったあの時間、つまり浪人時代と、テレビ局時代。特に後者はトイレでひたすら待機しては、時間の経過を待ち、携帯電話でその心情を書き残す事だけが唯一の救いであった。いやはやどれだけしんどかったのだろうか。しかし時は経った。僕は時の経過に対して、ちょっとは能動的に生きれていると思う。締め切りもあって、映像という時間のデザインを仕事にしているが故に、時間との闘いそのものが辛くなることもある。それでもその場にある一瞬のかけがえのない時間を四角いフレームに残したいという欲がある以上、例え時間に苦しんでいても少しは抵抗出来る気がするのであります

■TOHOシネマズ府中『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』
門外漢の自分でも、AKBの過酷さが伝わってくる映像がてんこ盛り。映画関係者からの見ておくべきとのコラムやらtweetがあって劇場に足を運んだが、確かに凄い。凄いが、とてももやもやした。この作品に対しての嫉妬なのか、アイドルに対する嫉妬なのか、優れている作品を見ていると同時に、その世界観を肯定したくない気持ちが発生してしまう。何だかそんな感情そのものが意地悪な気もしてしまうのだが、でも簡単に肯定したくない。

一年間に及ぶ撮影期間、その膨大な映像資料があったこと、さらには多数のカメラクルーがいたことは容易に想像出来る。編集は非常に良い場面が選択されており、やはりAKBの舞台裏に相応しいシーンが織り込まれる。(前作ではそれがなかった)前田敦子過呼吸や、総選挙の順位での一喜一憂、本音なのか建前なのか分からないメンバーの複雑な表情から、恋愛禁止のAKBが起こした恋愛スキャンダルで翻弄されるチーム4のメンバーなどそのどれもはAKBの裏面、そして舞台裏にカメラがあったことに他ならない貴重な映像と映るだろう。その中で彼女たちはそんな過酷なアイドルとしての仕事を立派に全うしていく。本当に頭が上がる思いだし、もう彼女たちがあのステージに立っているだけで、おそらく10代後半の自分との人生などからして比べようがないほどに素晴らしいものなのだろう。しかしここまで実体として過酷な映像を見ておきながら、やはりこれは秋元康の創作物であり、また偶像のようなものという思いに駆られてしまう。圧倒的なリアリティを示す映像に対して、しかしそれはやはりまたフレームの中限定の世界なのではないのかという気がしてしまう。要約すればAKBという被写体は日本の映し鏡にはならないということだ。もっとも彼女たちのAKBでの「仕事」の違う一面を見たに過ぎないわけで、それを容易にガチと称してしまうことには疑問を挟まずにはいられない。

恐らく多くの女の子たちがアイドルになりたいという願望を持つのだろう。これだけのメディアに流されるAKBという情報は時に洗脳的にさえ一般人の生活に届いている。例えばCDを数枚買わせることで、ファンを根強く獲得する姿勢から見ても悪く言えば食い種にされてしまっている。僕らが見たいのはそれらファンの心理と、発信する側の交錯点でもあり、またAKBという仕事が終了したアイドルたちなのかもしれない。しかしもちろんそれに対してカメラを回してしまえば、アイドルとしての偶像が崩れかねないし、そんなものは誰も望んでいないのかもしれない。しかしこれが日本のドキュメンタリーのA面になってしまっては困るのだ。膨大にある素材から良い画を繋ぎ、震災に焦点を当て、震災場所にメンバーを歩かせる(そりゃあの場所に行けば誰だって神妙な面持ちになるって)。どうして震災に彼女たちのフィルターを通す必要があるのか、彼女たちが代弁出来ることが果たして本当にあるのか。脈略のない震災の扱いは、震災の被害にあった研究生を被写体にするにしても安直な構成に見えてしまう。あくまで被写体はメンバーであり、メンバーの主観でもある。

どこかで軍隊的なその組織図に、僕は何だか嫌な気持ちがした。

本気と建前に迫るシーンがありながら、表情だけで美談にするなんて、何だか嫌だ。本当に思っている事を吐き出してもらいたいし、何せこの娘たちこそが「夢」だというのはどうなんだろうか。アイドルになった私は夢を追いかけてごめんみたいな、そんな手紙の読み上げなんて僕は嫌だ。それ以外のフレームが全く無視されているのだ。彼女らの友達はどう思っているのか、その想像をシャットダウンするミリタリー王国っぷりが本当に幸せなのか分からなくなってしまった。

フレームの外が見えない作り、だがフレームの中(偶像・テレビ・大衆)が生々しく実体をもって叫びだす。異質であり、これは凄い作品なのではないかと、いやAKBが凄くて、秋元康が凄いんだ。

だけどたぶん僕はこのままずっとアイドルにハマれないんだろうと、思いつつ、いつか仕事でこういう編集をしなきゃいけないんだろうし、もっと二人三脚でプロパガンダ的に作らなきゃいけないんだとうなとも思ったりして、ちょいと先が思いやられてしまった。いや歓迎すべきなのかもしれないけど、ポップアイドルにはなれない。もうフェチビデオしか作れない気がしてきてしまった。