ファンタジー

澤田さんが引退された。

澤田さんの引退興行に向かっていく数週間は超絶忙しかったのに、多幸感がもの凄くて、興行当日の蛇界の入場でそれが僕の中で極まった。
何で幸福感があったんだろう。単純に作ったものにある一定の満足感があったからか。いやたぶんそれだけじゃなくって僕の中で解釈が広がったからだ。価値観が広がったから。

蛇界という存在はプロレス界に革命をもたらした。当時ファンだった僕が見ていても、既存の解釈から明らかに逸脱した表現方法でプロレスを展開していくDDTと澤田さんは新鮮そのものだった。次第にストロングスタイルとのイデオロギー闘争にまで発展した。プロレスとはイデオロギーであると棚橋選手が言っていたが、それが定着するのは歴史がなくてはならなくて、過激な思想やそれに伴う肉体があってこそで、それが極まったのが新日本vsUWF、新日本vs全日本、メジャーvsインディーといった分かりやすい図式のものだった。

けどストロングスタイルvsファンタジーとはそのどれとも違うものだ。
しかしそれがイデオロギーとして成立したのはまさに澤田さんたちDDTが紡いだ歴史であり、澤田さんの原点にストロングスタイルの爪痕が残っていたから。

そんな世界を通して、自分が何かのキッカケでこの業界に入り、この引退興行に関わることになって、僕が仕事を通じて最高に感動していることに気付いた。仕事を通じてというのがポイントで、ただ仕事をしているだけなのに、仕事以上に人生哲学の何たるかを澤田さんを通じて、興行を通じて学んだというのが大きいのだと思う。

澤田さんに会いに流山市体育館に行った。「怪しいだろ〜」と嬉しそうに語る澤田さん。澤田さんはプロレスの表街道ではなく、裏街道を驀進してきた。それがマムシデスマッチというカルト化された試合形式に集約されていた。僕は流山市体育館に行き、その建物の怪しさと澤田さんの通ってきた人生が猛烈にリンクしてきた。だって普通のプロレスラーになりたかったら、そんな街道を通って行きたいとは思わないだろうから。もしかしたら消去法なのかもしれないけど、「これしかない」と思って筋を通して生きてきた人間の強さ。澤田さんの表情にはそんな強さがあって、そして優しさがあって、インタビューしている僕が泣きそうになってしまった。話をしていてそんなインスピレーションが沸いたり、そこにある建物や人物、オーラからその人の人生が猛烈に浮き上がってくる。

澤田さんとはドキュメンタリーそのものだと思った。

「俺は主役を支える人で良い」と自分を悟り、その役割を真っ当してきた人。裏街道に生きる道を見つけ、ファンタジーにかけた男が真っ当したプロレスは本物のプロレスだった。

取材の別れ際に
「映像はファンタジーだからね。キミの才能に期待しているんだよ」
と言われた。

僕はそのまま棒立ちになった。その意味が僕には強烈過ぎたから。

僕が大学生だったころ、残った唯一の希望は「リアル」だった。
周りの人が優秀なアニメーションを手がける。自分たちの空想や、こうなったら良いだろうという世界を描写出来る友人たちが羨ましくて仕方がなかった。
自分が満足して作れたものが何一つない。そんな時、残ったものは学生プロレスの仲間しかなかったのです。

当時、ドキュメンタリータッチと呼ばれる手持ちカメラの映画が流行していました。9.11以降の映像界は間違いなく変革した。9.11が「まるで映画のようだ」という感想があちこちで見受けられた。だから映画はそんなリアリティーを追求せざる終えなくなった。これはまるでドキュメンタリーのようだという映画が増えて行った。周りの人たちがまさにファンタジーのような表現を追求していく中で、僕が勝負出来るのは学生プロレスを通じて獲得した「痛み」「感情」といったリアルでした。

作った「ガクセイプロレスラー」は結果評価されたけど、社会人になってからの僕はその成功体験を更新出来ずに悩んで行きました。やがて仕事に疲弊し、もしかしたら学生時代でストップした感動は更新することが出来ないのかなって自分自身でもそんなことが過ったり。

けど、澤田さんとの仕事は見事にそれを更新してくれた。紛れもなく僕自身が感動していたから。

リアルで勝負した僕は、社会人になり社会でこれでもかと理不尽なリアルの前に疲れてしまった。
結果「リアル」に疲弊した僕は、ファンタジーにしてやられたのです。澤田さんの言うファンタジーとは希望や願いでした。

澤田さん自信がストロングスタイルの世界で挫折し、「これしかない」と勝負したファンタジー
ストロングスタイルとファンタジーは表裏一体。

僕の解釈ではドキュメンタリーとファンタジーは表裏一体でした。

ジョナス・メカスが「夢想家を育てる」と言ってドキュメンタリーを撮り続けると言った。
そしてヘルツォークのドキュメンタリーには意図的なショット、フィクションが織込められているが、それはヘルツォークならではの「真実」であるから「嘘」ではないという言説。

そんなことがリンクしてきた。
澤田さんのファンタジーは「リアルな現実をドラマティック」に生きるために必要不可欠な要素だったのだと思います。

ファンタジーの演出にはもの凄い手間ひまがかかることも勉強になりました。撮影、編集も倍の時間がかかる。それでもその世界観がこの疲弊しきった現実世界には必要になる時が必ず来る。

総合格闘技に押された時代に現れた澤田さんは救世主のようです。
そして今、僕が仕事を通じて体験出来たことも、このタイミングだからこそ感動出来ているのかもしれませんが、それでも僕はこの仕事をして本当に良かったと思った。学生時代には絶対出来ない経験だったと断言出来る。それだけ社会に出てきたリアルが辛かった。

だからこそ澤田さんが提示したファンタジーの価値観に救われた。そして「映像はファンタジーだからね」という言葉。
僕はもっとファンタジーで勝負しても良いのではないかと思いました。
僕が見たい世界、願いを映像にして良いのではないかと思った。それが澤田さんの言うファンタジーの一つならば、僕にとって大きなターニングポイントになりそう。

なにはともあれ、こんな短い時間で、僕にこれだけのことを結果として教えてくれた澤田さんには感謝しかないです。
お疲れさまでした!!