『果てなき路』

■深夜にマッスル坂井さんとのエピソードを思い出したように、書いたらリツイートの反応がいくつかあった。こうやってTwitterで書いて反応があるのはプロレスのことだけで、プロレス以外のことをつぶやけばまるで反応がないという、いかに私の映画に対することに世間が興味がないか。しかし別に媚びようとか、顧客を付けたいとか、もうそんなことは一切なく、ただ孤独に叫び続けたいだけで、ふと思った備忘録を残したいだけで、特にそんな情報だとかを拡散したいとか、そんな思いなんか一切ないわけですよ。確かに津田さんの『情報の呼吸法』を見て、そりゃあ発信しなくては得るものもないなんて思ったこともありましたがね、それはもう有名な人がやれば良い。有名じゃないから、ただの自主学生みたいな身分の私が発信だなんておこがましい。ただ単に大学を卒業して、もう学び舎と呼ばれる場所に属していないから、日々の研究を書き残したいだけで、そんなノート的な役割しか果たしていない。というかそういう使い道しかもはや出来ないのではないかと思うくらいに。発信と記録がほぼ同時に出来るこのインターネットツールも、ブログくらいがちょうどいい。ブログくらいにコンビニで立ち読みされるくらいが良い。なのでTwitterやめます。新聞代わりにします。

紀伊国屋書店に行ってきた。DVD売り場には往年の名画が揃っているが、一体何を見るべきか私には皆目健闘も付かない。本当に見るべきものは何なのか。これらの文化圏闘争のようなものは、いよいよこのような闘争というか、この辺りの文化にチャレンジしてみたいものだ。

イメージフォーラム『果てなき路』監督:モンテ・ヘルマン
モンテ・ヘルマンというワードそのものを気にしたことがこれまでの人生ではないにもかかわらず、こちらの公開が急激に見に行くべしというアンテナを身体が張りまくっていたというのに加えて、配給がboidだったということもあって見に行ってきた。いやーもう凄い作品ですよ。何故このような体験を人々は求めないのか、考えないのか不思議でしょうがない。確かに普通に生きていれば、届かない宣伝量だったりするのだろうけど、もっとアンテナ張るだろ!とも言いたくなってしまう。

およそ現代の映画とは思えないゆったりした映像が冒頭続く。何を示しているのか、何の暗示なのか、およそ「説明不足」と感じられる演出がこれでもかとねちっこいショットで続くのである。およそ現代の映画の導入部分でここまで不明瞭なことは早々ない。が、同時に高まる期待感。つまり説明的でないこと、不明瞭であるが故に張りめぐられた謎を解読していくスタイルの映画特有の怪しさ。もう既にこの地点でこの作品のノワール部分に取り付かれているのだ。

映画についての映画だが、この作品はまったくもって境界線が分からない。映画を撮っているシーンなのか、映画を撮っていないシーンなのかそれそのものの境界線が非常に曖昧だ。かつ曖昧なことを少しも恐れていないというか。

映画監督が映画女優に惚れ込んでいく。惚れ込み過ぎだと警告していく周辺。やがて迎える死。それをこの作品を撮影しているEOS 5Dを駆使してその場で撮影してしまう主人公の映画監督。拳銃のメタファーのようにカメラを持つ映画監督は、両手を離せと警官に言われるがままだ。カメラは拳銃なのか。そのような攻撃性を併せ持つ道具だった。それがこの映画の中で明らかになる。ある女優を撮りたいという願望は、そのまま死という結末に繋がっていく。

いくつかの謎は回収されたのか、それともされていないのか。謎は残りながらも、間違いなく虚実皮膜の中心に観客は置かれていることに、エンドロールに入ったことを「エンドロール」という言葉をそのまま使った歌詞の曲とともに明らかになる。実に狂ったデジタルシネマだ。いやこれはデジタルシネマの可能性でしかない。若き制作者の希望そのものではないか。

イメージフォーラム『断絶』監督:モンテ・ヘルマン
70年代のその破滅に向かっていくシーンは、我々の世代ではその感覚を体感することは映画を通してでしか知る事なの出来ない。アメリカンニューシネマという一連の作品群の中でやはりこの『断絶』も破滅に向かっていく刹那的な若者を切り取る。現代ではおよそ考えも付かない「車」への価値。それを持つ事のアイデンティティと、未だ見ぬ場所へ「移動」するという行為。情報のボーダレスと「移動」を必要とすることのなくなった今には、そのような時代が羨ましくも、また怖くも感じられるのである。The Girlはまさに行動意思を持っているのか、持っていないのか分からないその肉体だけが浮ついて見える「女」であった。女が意思を持っていない時代だったのか、そこまで男尊女卑だったか、まだまだ調べが足らないのだが、それにしたってThe Girlは言葉を発さないまま、その存在を「移動する男」に預けていく。しかし最後はたまたまバーで口論となった「移動する男たち」を脇目に、見知らぬバイカーの後ろに付いていってしまった。果たしてそれはいったい何だったのだろうか。妙にダサさが見え隠れする主人公たちの苛立ちは、ラストのレースに集約される。レースの結果を知る事はなく、フィルムは焼かれていき、そのまま文字通り断絶されてしまうのだった。

■『切りとれ、あの祈る手を――〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』著:佐々木中
再び最終章を読み、深夜の3時半にフレッシュネスバーガーでこれを書いている。この本自体が夜話ということで、恐らくは夜の深い時間によって語られ制作されているのではないかと思われる。最終章は文学が死んでいない事、藝術は発表する必要があるのか?そして「死」という概念に対して文学が残した可能性について解いている。

この著書が発刊された背景にはライムスター宇多丸氏との会話がキッカケだと書かれている。日本語ラップの第一人者である宇多丸さんはその言葉をもっとビギナーにも伝える義務があると筆者に語りかけたのだという。この本のラストは言葉は死なないことを示している。偉人たちが死後になってその文献が発見され、世に出た事で我々が誕生し、今まさに生きている。文学の歴史そのものがまだ浅い5000年程度のもので、そのレベルからすれば、近年の「文学は死んだ」などというニュアンスそのものがいかにばかばかしいことか、その言葉がナチスやオウムのような方法で人間の死に向かう事のくだらなさについて圧倒的な正論と共に目の前に提示される。岡本太郎は作品制作の「制作」するプロットこそが全てであり、出来上がったものは石ころと変わらないという表現をしているようだ。まるで日々評価に怯えている私には本当に胸に刺さる言葉である。かつての本はそのいくつかが自主出版され、それが日の目を浴びることなく、全く役に立たずにその生涯を閉じたように思われているが、実際はそのうちの一つが古本屋で発見され、それを読んだ若者によってその本の本当の使命が果たされる瞬間があったという。

まったくもって不安視する必要などないのだ。そう簡単に人間は死を認知することが出来ない。自分が死んだ事を我々は確認することが出来ない。我々は生きている事しか本質的に確認出来ないのである。

いやだから自分が今やりたいのが「26歳の映画」なんです。過去に「23歳の映画」を作った。映画と呼べる代物ではなかったが、実に出鱈目な「age23」という作品を作った。しかしこんな出鱈目なものでも、何人かの人は「良かった」と言ってくれたんですね。とんてもない。いささか申し訳なさも残るこの作品は自分自身が生まれた意味をもう一度問いなおそうとしたんですが、あまりに自分の引き出しの少なさに、まあ寺山修司の真似事のようなことしか出来なかった。あんなもの作って、僕はエッジが効いてるんですよなんて、見せびらかしたかったんですね。というよりも、作品なんて作りたくなかったんですよ。しかし、どういうわけか、3年が経過しまた今度はまた26歳の映画を作りたくなっている。それは具体的に「26歳問題」という問題が表出したからなんですね。実際23歳と26歳では雲泥の差でした。まず映画を見るという習慣があの頃と圧倒的に違う。そして私が現在プロの「映像ディレクター」であるということそのものですよ。販売用のDVDも作っています、興行のVTRも作っています。CS放送のテレビ番組も作りました。この1年間で「創る」ということが当たり前になったのです。しかし、私の意思、思想、底から沸き上がる「今」をfilmには残していない。そこだけが気がかりでした。これは全くもって世の中のビジネスサイクルには必要のないものです。しかしながら、「私」から放たれている表現への興味が止まらない。これは一体何故か。仕事を通じて感じた理不尽、仕事を通じて形成されたスキル、染み付いた生活、見てきたことから感じた私の率直な感想を、自分なりにまとめあげなければ、この26歳が実は多くの社会学で言及され、同時に誤解されている。文章、文学だけの言及ではなくて、映像にしてそれを形にしたいのです。しかしどのような映像のテイストにするのか、どのような出演者と…。悩みは付きませんが、やります。


追記:この文章が気持ち悪過ぎて笑えてきた。しかし、まあ新年早々にこんな気持ちにさせられたというか、何か26歳問題というテーマを見いだせたのは良かったのですね。