26歳革命

■プロットを書く。客観視すると全然面白くない。全くもってイメージがつながらない。

■『切りとれ、あの祈る手を――〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』著:佐々木中
2度目の再読。随所に散りばめられている一点の曇りもない事実は書くことこそが革命であるという点。暴力革命に傾く事なく、偉大な先人たちが起こしてきたのは真にテクストによる革命であった。そして同時に読書とは怖いことであるというこも同時に裏付けられている。

書く事、書き直こと、翻訳されることに革命はあった。革命を誤解することで生じるオウムのような存在。かってに解脱者を名乗る事のバカさ。そして藝術がナチスやオウムのような思想によって転覆されかかっている背景。

しかし何故書かなくてはならないのか。書くことで革命はやがて生まれていく。書く事で思想は語り継がれ、書き直され、その地表に立つ。先人たちが書いてきたテクストは間違いなくこの世界を豊かのようものしてきた。で、あるが故に再び起こらんとする暴力革命には対抗していかなくてはいけない。

部屋に3日籠って書いてみろということだ。

書くことが革命。更新されゆく革命。情報や暴力に頼る事の出来ない、本という思想と革命を私は今、映画にして表現をせなばらない。26歳が問う本当の26歳革命とは何か?改めて書きおこさなければ話にはならないがね。

文学は勝利をしてきた。ルター

間違いなく今すべきことは「若き思想の映像化」である。それも26歳のうちに完成させることだ。これは大義名分、mustな出来事だということが今、ハッキリと分かったのだ。文学として、総合芸術として、更新されるべきテクストを映画にすることが今の使命なのだ。


Amazonのレビューにある
「読む」こと、写すこと、訳すことの途方もなさ、魔にとらわれることによって始まる「書く」ことが革命を引き起こす。その「書く」ことは世界の9割が文盲であっても、0.1パーセントの可能性に賭けて行われなければならない、読み書くことで殺されるとしても。作家や哲学者の名前を列挙して、彼らがいてくれなければ「何をして生きていたらいいのかもわからなかった」というひと言に震えるように共感した。

とあるように、後進の指針となるものが必ず存在してく。『ガクセイプロレスラー』という作品がまさに大学の後輩のドキュメンタリーの指針となったように、今まさに26歳という転換期を生きるものたちの等身大の指針をフィルムに納めるべき瞬間にきた。それはやはりタイミングと、日々の永遠と繰り広げられた映画鑑賞と、読書と、時代の代弁となるべき歌を見つけた今だからこそのタイミングである。

これでヴェンダースが3Dを、さらにヘルツォークが3Dにでもしてでもしなくてはならなかった藝術が分かるはずだ。改編されていくテクストはやがて3Dという手法になり、そしてダンスや、その壁画といった表現になる。これは全てが奇麗につながった。何てことだろうか。

さぁ私は何をすべきだろうか。