新年のオフでDVD祭り

■DVD『式日』監督:庵野秀明
映画監督を演じるのが、岩井俊二でそのぶっきらぼうな演技がどこか可愛らしい。庵野自身のセルフドキュメンタリーかのように悩める映画監督の如くその周辺の出来事をやはりエヴァと同様の語り口で矢継ぎ早に攻めたてる。ヒロインの藤谷文子はよく分からない。誕生日を永遠と繰り広げるそのキャラクターの真意は本当に分からない。エヴァのヒロインはエヴァのヒロインで成立しているのであって、実写のヒロインのようにはならないのではないか。どこか気が狂った女の子のようにしか見えなかった、その先の感情を汲み取る事が出来なかったのが、好き嫌いの別れ目ではないか。が、映画監督の悩みそのものが日本でこのような形で結実した作品は後にも先にも見た事があまりない。DVカメラを持ちながらイメージとなるショットをひたすら探し続け、脚本家からの電話には「もうちょっとしたらプロット送るわ」と自然な会話をしだす。この辺りの声がノイズのように聞こえてくるのがエヴァにも随所に見られる。ラジカセから聞こえる音、雑音、街のノイズは映画の台詞ではなく、独り言のようにこちらに聞こえてくる。しかしそれらのノイズの集積が、庵野の切実な叫びにも聞こえてくる。いや一体これは何なのだろうか。岩井俊二の身体を借りる事でそこまでして「カントク」を表現したかったこととは。生みの苦しみなのか、今の作品論に対する批評なのか、そしてそれ自体を映画にしたいと感じる理由が本質的に見当たらない。一人の女と一人の映画監督が81/2のような状況下で繰り広げられる摩訶不思議な空間とこの映画は、庵野の頭の中を覗いているのではないかという気持ちにさせる。カントクの頭の中は映画であって、それを形にすれば映画になる。そんな映画監督が創作において悩み、批評的になるのはごく当然のことであって、この時期の庵野自身がこのような摩訶不思議な映画を撮ったことは後に自身でリメークを施す事になるエヴァンゲリオンをもう一度作るという簡潔な結論に向かっていくのだろう。キム・ギドグが『アリラン』というセルフ・ドキュメンタリーを撮ったことの因果関係に近いものがある。作家とは自身が作ったものと同時に闘わなくてはならない宿命を背負ってしまう生き物であり、またそれを更新しなくてはいけない生き物なのだから。 

■DVD『スパニッシュ・アパートメント』監督:セドリック・クラピッシュ
人種のるつぼと化するアパートの中で、様々な価値観の相違やドタバタなやり取りが、極めてスタイリッシュな映像でテンポよく進んでいく。まるで手法は個人映画なのでは?と思うほどに実験的なコマ撮りや、微妙な移動撮影からのディゾルブの連続で幻影的な映像を作り出していく。日常の恒久的なおかしみはそのまま秀逸なドラマへと転換していく。注目すべき点はそれだけではない。あくまでこの映画は作家を目指す主人公のモノローグをダレないタイミングで展開していくのだ。ダレないというのはここでは圧倒的なテンポとサービス精神とその映像表現の若々しさそのものを示す。FinalCutでのノンリニア編集を経験したものなら誰もがやられたと思う、そのレイヤー構造を上手く利用した編集。画面にベタっと画像を貼付けたり、デジタル上での編集は最大限に利用出来ることをしていっていくこの様子を見ると、映画的なる表現に留まる事がアホらしく思えてくる。限りなく映画とは自由であるということに改めて気付かされるのだ。

■DVD『ロシアン・ドールズ』』監督:セドリック・クラピッシュ
スパニッシュ・アパートメント』の続編は5年後の設定。まさしく後日談とも言うべき正統な続編は前作でお調子者の男が結婚するので、かつてのアパートの住人たちが再び集まりだしたことからその導入部分は始まる。主人公は前作では作家の卵という出で立ちであったが、鳴かず飛ばずのままどうでも良いようなテレビドラマの脚本を書いていたりと、状況に進展も特にないままに、だがプレイボーイのように女のケツを追いかけ回している。主人公が電車の中で小説のようなものを書いている。書き出しは自己言及のような書き出しであった。前作で起こった出来事を『スパニッシュ・アパートメント』と題し小説にしようとしたが、それは何故かお蔵入りにされている。前作との連動性がとても楽しいアップデートとなって登場している。さらに登場人物は全く恋愛関係にならなかった前作のウェンディが本作で主人公と交際を始める。仕事柄書き物の仕事をたまたましていた二人がひょんなことから英語で書き起こすために、その仕事を協力しあううちに恋愛関係に至る。この空白の5年間はかつてのルームメイトの再会にハードな恋愛を求める。人間とはそんなものだろうか、またはそういうものなのか、時間経過を考えれば考えるほどに、人生は映画のようにはいかないのだということを、この映画が証明してしまっているのである。作中には全裸でチンポ剥き出しで走ったり、画面分割による表現が見られたり、年の構図の切り取り方が異常に上手かったりと、その状況に見合った範囲での狂った表現が一部見られる。そんなところも可愛いのだけど。

■DVD『GONIN』監督:石井隆
ハードボイルドな日本人がまだこの時代にはあったのだと思えると、やっぱり今の日本映画群がひたすらつまらなく思えてくるのは致し方ない事なんでしょうが、そんなことは僕が言ったところではどうにもならない。ただ言えるのはこういうものを作っていた日本映画をもう一度面白く客体化出来るかということで、なおかつこの時代にもう一度戻さなくては行けないというか、特にハードボイルドな男の魅力という点に限って言えばもう本当にそうだわ。この中で言えばひたすら竹中直人のトゥーマッチ感がひたすら戯曲的なのにもかかわらず何故ここまで心に響くのかということを考えざる終えないのです。リストラされたサラリーマンという響き以上にそのサラリーマンが父さんを舐めるなと良い拳銃をぶっ放す。まるで90年代半ばにはもう既にマイホームを持ち、家族と一緒に過ごすことそのものがまつで幻想であったと言わんばかりに辛い状況。「父さん一日で3000万稼いできたんだ、凄いだろ」と言い放つも誰もいない家。既に殺されていた家族に気付くまでに、その現実とも非現実とも判断の付かないカットの断片が矢継ぎ早に展開されていく。これこそが映像表現の浪花節的なもの悲しさというべきなのだろうか。ひたすらそこに見えるのは時代性と共に、家族に対する幻想と現実が叶わなかった男の、ただ純粋に働いてきた男の悲しみのようにも思えてしまう。なんと悲しいシーケンスであろう。北野武演じるヒットマンにあっという間に殺されてしまう。悲しき宿命。戯曲的であるが故に、現実的なシーンやショット、風景が映画ならではのフィクションとあいまったときに、何故ここまでの悲しさを感じさせることが出来るのか。