愛想だの

■徹夜明けの朝。最近は事務所近くにある接骨院に通っている。気休め程度かもしれないが、身体をほぐさないととてもじゃないけど持たない。ただでさえケアを怠る性格なので、ここに通いだす判断は正解だと思った。でもまあここに通った理由がただ疲れてるからだけではなくて、先生がとても可愛い女性だということもあって。そして患者(私)に対する愛がある。つくづく人間は愛想だと思った。何気ない日常の中で、ほんのふとした事で喜びがあるというのが、どれだけ救いになるのだろうか。対照的に事務所の近くのコンビニの店員はほぼ全員愛想がない。一体君たちはどこで感情を表現するんだろうと、余計なお世話な台詞も一言吐きたくなるくらいに愛想がない。マクドナルドのスマイル0円というのは、具体的な金銭や給与として関係ないサービスを、具体か抽象かよくわからない言い回しのようで、的確に捉えた言い回しだろう。が、たぶんそれって0円どころではなくて、相当な銭を生み出しているということに、気がついていないのかもしれない。ここで微妙にロマコメ的な価値観が混入してくる。だって仮に風俗に行ったとして同じ料金を払って、サービスの悪い人に当たって次にその人を指名しようとは思わないでしょうが。僕が美容院で巨乳美容師を指名し続けているのは、喋りやすいとか、技術とか、信頼とか、スピードとか、おっぱいとか、いろんな面からの総合的判断だということで。で、ロマコメ的に見ればこのコンビニは学園的に見れば、まったくトキメキのないつまらない専門学校ともいうべき、学園ドラマ性の皆無な組織図で成立しているんだろう。誰も感情を持って干渉しなくて楽なんだろうけど、全く誰の琴線にも触れないまま、ただただ時間を過ごしていく。バイトの生産性だとかということを言っているのではなくて、あくまでそこに「ロマンティックコメディ」はあるかという問題であって。ロマコメを見続けた結果、その作品群の「可愛さ」や「愛おしさ」というのは私なりに幸せの一つなのだという結論に達した。そんな幸せは恐らく人を不快にさせることなく、ポップな物語として動き出す可能性を秘めている。だからそれが「作品」という単位だけでなく「個人」や極私的なパーソナルな部分にも存在していて、たぶんそんな日常のドキュメンタリーな部分に「ロマコメ」は存在している。

僕が可愛い先生がいる接骨院に通いだしたのは、「ロマコメ」があったからに他ならない。何も疲れているとか、そういうことだけじゃくて、トキメキたいだけなのだと思う。だから愛想がない作り手が作るアート作品はことごとく可愛気に欠けている。思えばそうだった。やっぱりコイツ可愛いなと思う人の作品は、やっぱり可愛気のある作品に仕上がっている。いつもムスっとしているヤツの作品はどこかムスっとしていて可愛気がなかった。それが評価基準とかとは別だけど、極私的なラブコメ指数という点数制を用いたら何があるか分からんよ。

今日も先生は可愛かった。

そして可愛気のない文章を書きなぐった

■編集に疲れきった。さすがにこの量を前にPCの前でいると、見かねてスタッフの方が声をかけてくれたよ。映像の表現というのは同時に時間的な奴隷状態にもなるということでもあったりする。僕の足の臭さも含めて、同情もしたくなるのでしょう。休憩がてらにもう一度筆を進めてみようと思う。

このロマコメ熱は何だろうと本当に考えているのです。今年の震災以降に政治的メッセージがメディアを覆う一方で、僕はそれに耳をかす時間もなく、ひたすら一種の喜劇のような興行の演出や映像に携わり、そしてそれにどんどん時間を費やすことになっていった。どうなんだろう。社会のことを把握しているとは言い難い状況にいつのまにかなっているし、かといってゆっくりしていれば、仕事が停滞してしまって回らなかったりする。そんなこんなで僕はサーカス団の一員としてある部分では舞台上の上だけを考えていたとも言える。『アンダーグランド』じゃないんだけど、気がついたときには政治情勢が一変していたみたいな感覚なんです。だから自分が地下映像作家だと思う感覚の一つが、別に政治的メッセージを放てる立場にないからなんだと思う。

政治的意見が語られる一方で、皆各自がそれぞれに出来る「仕事」に向かっていった。たぶんそんな中で、僕は政治側に向かうのではなく、むしろ「地下」や「マイノリティ」といったものに気がついたら向かっていった。

今、ちょうど古市さんの本を読み終えた。絶望と幸福が交錯する現代。確かに僕はそのどちらの感情がいったりきたりしている。そんな中で一つ「ロマコメ」を作ることで何か形にしてみたくなった。