考える

オルタナティブな表現はどこまでラディカルな表現として突き切れたものを提示出来るかということもあるのでしょう。ポップさとはほど遠い、けど今まで見た事のなかった体験しなかったことの何かが提示される確立は極めて高いように思われる。そんな中で入江監督が推奨していた本作を見た。3時間の上映時間でカット割りと言えるものはほとんどなく、3時間ひたすら老女がカメラに向かって自身の人生を語りだす。字幕は右側に表示されるので、動きのない画面の中ではその字幕に照準を合わせてしまう。映像小説ともいうべき現象なのか、ここまで文字情報に注視しながら何かを見るということはあまりない。懸念していたのはやっぱり「退屈な映画」なのではないかということだった。2009年の山形大賞作品もやはりインタビューのみで構成された作品で、真に作品を解読するには相当な根気が必要だった。独白は表現になるのか?ただひたすらそんなことを考えさせる3時間。

それでも本作は不思議とスペクタルに満ちていた。女性が過ごしてきた人生が言葉の緩急と共に伝わってくる。言葉の言い回しが極めて小説的だ。慣用句やことわざを巧みに使い、こちらに脳内の映像を想像させてくる。自殺未遂をした状況のリアリティある言葉の羅列はいかにその状況が緊迫していたかをこちらに喚起させるものだった。

映像はだんだんと暗くなっていく。単純に昼から夜に独白中になったのだろう。途中でトイレに行ったり、監督が「明かりをつけてくれ」というシーンはあるもののそれ以外は全て独白だ。

内容に関する事を書くべきなんだろうけど、僕はこの形式について考えずにはいられない。人の独白は面白いのか?それは人に何を与えるのか?変わらないフィックスの映像はどこまで人の退屈さに耐えうるのか。

本作はどうやら美術館のインスタレーション作品の一つとして作られたものらしい。僕もよくそんな映像インスタレーションを展示でよく見てきた。しかし多くの作品がさらっと流されてしまうような展示形態であったり、観賞してもその作品の真意を汲み取れないまま、美術館を後にすることがよくあった。この作品は美術館で見れば恐らくものの数分で次の作品に移動してしまうような、作品だったと思う。しかし映画館という監禁された状況の中では、驚くほどその情景や、言葉に耳をすますことが出来たのだ。どうしてだろう?映画だからなのか?映画館だからなのか?その作品のためにお金を払っているからなのか?入江監督が良いといっていたからしっかり見ようと思ったのか?そんな不可解さが自分の中で残る。

確か私が大学2年生のころ、初のドキュメンタリー作品を課題で作った(10min)。で、その課題の中では割と優秀だったので、油画科との合同講評会に出品されたのです。ただその時の講評では、それこそフィックスで撮りっぱなしのような映像インスタを作り続けている油画科の教授に「これはただのインタビュー映像だ」と言われた事もあった。途中で試合の映像やそれなりに、動きのあるシーンはあったものの、まだ映像を作り始めたばかりだし、何かから引用出来るほど映画なんて見た事もなかったので、僕はそれを真っ正面から受けとめるしかなかった。確かにドキュメンタリーと言えるほど奇跡的な現場に立ち会っていないし、ドキュメンタリーと言えるほどリアルな何かを映し出した場面はない。だからこそ本作はその究極系でもある「独白はドキュメンタリーなのか?」という問い、疑問に対する良テキストであると思えた。

独白。たった一人の人がその想いを吐き出す。そんな形式の映画で「良い映画」とされるものは少ないように思えた。「その男ヴァンダム」という映画の中ではヴァンダムがヴァンダムを演じるというコンセプトのもとに売れなかった自分の話を自虐的に虚実の合間を交錯しながらも、その脚本上とは関係のないシーンでヴァンダムの独白がある。このシーンは前後のシーンもある中で、大変心に訴えてくるものなのだけど、映画としてはヘンテコな映画という烙印を押された感もある。

しかし、こういう作品をやっぱり作ろうと思っちゃダメだんだよな、きっと。これはワン・ビンだからこそ出来る事で、普通の人が独白をすればやっぱりただの戯れ言なのです。この作品は中国のある革命についての記憶を巡るお話。ワン・ビンが捉えることの出来る土台があるから成立しているの。だからこの手の作品を学生がやると必ず失敗する。22年そこらしか生きていない学生が映像インスタレーションで自分語りをするなんて50年早いのだ。

だからもっとエンタメ寄りにしなくてはいけない。せめてもの観客性。
卒業制作で意識したのは作品としてのサービス精神だった。超低予算の素人映画が出来る工夫なんて限られてる。演技も出来ないし、頭の中に描いては消えるのは地に足が付かない作品ばかり。そこで出来たのは好きな作品の引用を徹底することと、徹底してカットを割りテンポを作る事だった。どんな人にも対応出来る客観性を自分自身が持てるか。それが重要ではないか。

帰宅して作業をしてみて、独白の数十分を作品にするのは自分は不可だと分かった。それを作品と提示することが努力なんじゃなくて、そんなラディカルを目指す必要性はない。まずは十分に「面白い」ものを作る事が先決だと思った。
『500日のサマー』を再見してみて、細かい部分で日常が見える。映画とはいえ、共感を得られる隙間がある以上ドキュメンタリーだと思った。だからコチラ側におりてくる映画は何度もみたくなる。あと単純に20インチのテレビ画面でBDで見ても面白いと思えるかどうか←これがかなり重要だと思った。映画館じゃなきゃとか、美術館じゃなきゃとか、そういうレベルの語りは若手が目指すべき段階じゃないんだと。家庭サイズでも楽しめるものを作ってから、それを語るべきだし、それがまず地に足をつけるということだと思った。

だからたぶん多くの学生作品は「勘違い」のまま終焉を迎えてしまうのだと。ワン・ビンの作品はそういう意味では大変難易度が高い。であるが故に素人が手を出すと大火傷をしかねない。ラディカルであることはベーシックであることをあえて放棄する場面が出てくるので、そんなことを大学教育は決して教えてはくれないのだ。だから地道に自分の流儀を身につけていくしかないのだ。

『(500)日のサマー』もMV出身の作品だし、トニー・スコットもCM出身だし、MVやCMのようなテンポからまずは若手は攻めていくべきなんだろうな。

で、今日思ったのは他でもない。『(500)日のサマー』がおもしれぇって普通に家で感動したのだが、もう家にあるBD、DVDの数がかなりの量で困っとる。中には一回見ただけのもあるけど、何度も見返したくなるから保存して買っているわけで。もう本当にBru-layが素晴らしい。もっと言えば自分の部屋にもう少し大きめのテレビがあれば確かに映画館に足を運ばなくても良いかもしれない。良作を何度も見て研究すれば良いわけだから。いや本当にBD・iPhone世代の結果をいい加減出さないとアカンと。次作は『(500)日のサマー』が圧倒的な好テキストになりそう。あとは何だろう『127時間』とかのオープニングかしら。

サマーは時折テレビっぽい説明的ともいうべき映像の引用が上手い。それでいてそれが「説明」のルックじゃなくて表現のルックになってるから。8ミリの画面分割や、妄想と現実の2分割とか。今やりたい作品にも引用出来そう。

とりあえずこの文体が気持ち悪い。

で、その後のオムニバス作品は酷かった。思わず勢いで三回券を買ってしまったけど、いくらなんでもフィックス・ワンカット系の作品が多すぎる。もう解釈のしようがない明らかな手抜きっぷりに、思わずプロとの差ってそんなにないんじゃない?と勘違いしそうになるほど。ラストの上海のビルに投影される映像を延々と映す作品は本当にしんどかったね。ワン・ビン作品はそんな中でも流石の存在感で、ドキュメンタリーのアプローチとほとんど変わりなく劇映画を撮れてしまうことが恐ろしいよ。現実のノンフィクションがそのまま狂気になってしまっている感じの暴行映像。とにかくタッチが『鉄西区』と変わりないのに、やっていることが『冷たい熱帯魚』ばりに凶暴というのが凄まじい。あとワン・ビンはDVで撮影していることがまったくデメリットになっていない。むしろDVの粒子が切実に現実を映し出す情報量として適切に観客に届いてくる。もしこれがフィルムであったら、逆に虚構性が強くなるんじゃないかとも思った。


■現代のスピード感はどのように表現すべきなのだろうか。バンクーバーで『ガクセイプロレスラー』を紹介されたときに「スピーディーな映像」と形容されていたけど、意識する以上に刻んでいったと思う。雑になるかならないかギリギリのラインだったと思うのだけど、もうこれは自分の売りにしていこうと。自主作品に関してはなるべく短く、カットでテンポを作る方法はノンリニア世代だと開き直ってきざんでいかないと、無視されてしまうから。

■ふと気がついた、新宿バルト9での観賞が圧倒的に増えたけど、バルトの経験がじわじわ活きてきたなと。バルトでの記憶が身体に染み付いてきていて、全盛期のワーナーバイトくらいに映画観賞と身体がリンクしてきた。これのメリットというのは映画体験がそのまま生き字引になるということだ。引き出しも一つの映画館で集中して見れば記憶のアーカイブからさらっと出てくる。それくらいバルト9の深夜上映の恩恵を受けている。

■「今の映画」のポイントは等身大を如何に切り取るかだと思う。ヒーロー映画や特殊なCGの使用や、圧倒的な脚本力が見込めない映画の鍵はそこだと思う。『ブルーバレンタイン』も『ウィンターズボーン』も生きていく上で過酷な景色が高解像度のカメラで迫ってくる。REDカメラの特徴なのかもしれないのだけど、その生活感が全然背伸びをしている感じじゃなくて良い。これは松江さんの『ライブテープ』もそうなんだけど、街が手に届く感じというか、そんな距離感。あえて言えば特別じゃない感じ。だけどそれを如何に映画的体験に置き換えられるかがまたさらなるキーポイントなんでしょうが。

もうそれをドキュメンタリータッチと言うのはナンセンスだと思う。ワン・ビンの作品のルックが劇映画だろうと、ドキュメンタリーであろうと変わりはないのだから。タッチやルックの現実感と、背伸びをしない圧倒的な「今」の提示。