『キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー』

■新宿の街をフラフラした。このまま家に帰るのも何だし、財布の中にたまった前売り券を消化しないと。半ば脅迫的に映画を見る状況を作っている。プロレス団体で働くものが、何故にここまで映画に固執するのか端から見ていると不思議だ。プロレスに還元したいとかもはやそんな大義名分は自分の中では存在しえない。もうライフワークであり、その暗闇はプロレスが与えてくれるものとは別種のものであり、日々の労働だけではやはり得られないものなのだろう。

たまたま見たキャプテンアメリカ電人ザボーガーの組み合わせは我ながらに良いなと思った。どちらも英雄伝であり、また物語とは何か、映画芸術とは何かを根本的にに考えさせてくれるものだった。

新宿バルト9キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー』監督:ジョー・ジョンストン
ひ弱なもやし男が陸軍入りを志すも何度も不合格の烙印を押されてしまう。プロフィールを偽るも直ぐにバレてしまうが、ある科学者によって軍入りを見いだされる。それが主人公がキャプテンアメリカに選ばれるある才能に突出していたから。

英雄を語るのにはあり得ないほどの虚弱体質な男の絵はもはや少年漫画のギャグだ。まるでガモウひろしラッキーマンの如くおかしみがにじみ出てくる。しかしそれ自体が強烈な前フリであった。虚弱体質な分かりやすいビジュアルは後に国旗を彩ったヒーローへと変身する。通知表が1か2であった男が何かをきっかけにその才能をいっきに開花する。そんなストーリーはよくありふれたもので、現実にもよくありえるのではないか。キャプテンアメリカは特殊能力がある訳でもなく果敢に己の肉体やアイデアで闘っていく。むしろ描かれるのは肉体ではなくその強い「精神」であり、「想い」。漫画「ジョジョ」は特殊能力による闘いを描きながらも、その本質は「精神」を描いている。精神を視覚化することは難しく、表層の強さのヒエラルキーだけではその精神は描ききることは出来ない。作品における「精神力」というパロメーターは何だろうか。キャプテンアメリカはあえて特殊能力に頼らない事で人間の精神力を浮き彫りにしてくれた。キャプテンアメリカはまず国を守る。しかし本作ではプロパガンダ的なアメリカ像は僅かにとどまっている。むしろ本作で重要なのは闘いにおけるグルーヴ感だ。キャプテンアメリカが中盤で捕まっている中隊を助けに行く。登場する彼らはどれも「脇役」としてはあまりに個性的な良い表情を見せつけ、僅か数分で一人一人のキャラクターのイメージが脳内にインプット出来てしまう。何というかこの作品はクラス分けが上手いなと思った。それくらいにミリタリーなバランスが良い。人物の配置が良い。顔で勝負する韓国映画ばりにこの作品はそんな豊かさがある。

そして粋な主役たち。

プロパガンダなヒーローをあえてプロパガンダとは違う軸で描いた本作には、普遍的な英雄伝のベーシックな要素で満ちあふれている。科学の力によって変化する主人公と、科学の力によって暴走した悲しき悪役。才能を見いだす愛すべき女性と、闘いの場に主人公を見いだした友人の存在。それらはある一貫した「精神」に向かっている。キャプテンアメリカはそんな精神が人それぞれ違いながらもある集合に向かって全員の精神がぶつかる心地よさがある。「ドラクエ4」のオムニバス形式は最終章で勇者が主人公になった際にそれぞれのパートの登場人物が最終章で集まり共に闘う「パーティー」を形成するところにカタルシスがある。本作はそれらの伏線があまりに上手くいっていて驚かされる。

ヘイリー・アトウェルが巨乳で可憐な女司令官役。とにかく最高で、軍服の似合うところを見ると、軍服女子によって映画が映える法則がある気がしてきた。巨乳で制服がパンパンなんてアンヌ隊員を彷彿とさせます。

新宿バルト9電人ザボーガー』監督: 井口昇
全てがギャグに見えてしまうくらいにメタレベルなヒーロー伝を大真面目に向き合い、真摯に映画化した傑作。恐らく物語にはあるツボが存在して、ザボーガーという作品はそのツボの存在を誰しもが認知出来るくらいにビジュアルで表現している。「第1部」「つづく」といったテレビシリーズからのお約束や、決めのポーズ、そして滑稽にさえ映る必殺技の数々。そのどれもが「自然な演技」とは真逆だ。どれもが大袈裟に、道化にさえ見えてくる。しかし道化の結晶こそが間違いなく人間の心に訴える「物語」や「愛すべきキャラクター」の存在を今日まで語り付かせているのではないか。


「歴史」を語るには「英雄」が必要であり、その「物語」を作るには「道化」が必要である。そんなことを考えさせる二本だ。ドキュメンタリー作品が今日まで一般的に語り継がれていなかったり、実験映画群の隅に追いやられているのは圧倒的に「英雄」と「道化」が足らないからだ。その二つのポップさと思わず愛したくなり語りたくなる要素をドキュメンタリーはある部分では排除し続けてきたのかもしれない。

今後自分が作る新作にかけて言えば、しっかりと「ヒーローになる」ということと「道化と現実」の境界を探る試みになっていきそうだ。

それにしても二日間、仕事が落ち着いた中で映画館に通い、その闇に身を置いてみると、いかに日常が疲弊するような構造によって満ちあふれているかが分かる。日本人が働き過ぎなのか、会社が働かせ過ぎなのかは分からない。が、この状態は自分の求める幸福とはまたやはり違うものであった。そんな日常を逃避したいのと、日常を闇に染めたいそんな願望が、また映画を作りたいという気持ちに駆られるのかもしれない。