『ハンナ』

新宿ピカデリー『ハンナ』監督: ジョー・ライト
大傑作!走る映像、高鳴る音楽。『ラン・ローラ・ラン』+『π』+『エル・トポ』+『もののけ姫』何だかシネマライズ系映画のエクストリームな部分をサンプリングしてしまったかのような高揚感。プロットだけではなかなか近付き難い作品ではある。16歳の少女が殺人マシンに育てられた云々はその謳い文句が現代的ではないにせよ、その圧倒的なビジュアルと音で見せつける説得力に僕はすっかり魅了されてしまった。確かに構成に難がないわけではない、「焦点が定まっていない」だの、「途中からだれる」だのの感想は確かに多く見受けられる。だが15秒や30秒の短い時間軸で行われるようなCMをもっとも映画というフォーマットで見せきってしまうようなこの圧倒的な映像体験は、その部分も抽出してでも語られるべきだ。ハンナがCIAに捕まりそこから脱出するシーン。ハンナが鍛えられた感覚で独房に仕掛けられた監視カメラの場所を言い当てていく。もの凄く素早いスピードで定点に仕掛けられた監視カメラでさえその映像はスタイリッシュにかつ気持ちの良い映像として処理される。ハンナはその後脱出する。ケミカルブラザーズの見事な音楽とそれまで音楽を一度も聞いた事がないハンナの鼓動ともいうべき活発的な動きがマッチする。3D映画でもなければデジタル上映でもない。35mmのフィルム映像でこの高揚感は一体何なのかと訪ねられれば映像と音響の関係性を突き詰めに詰めたシーケンスとも言える。音楽はときとしてゲーム音楽のような(プレステ以降のファイナルファンタジー)などのテンションを持ち出し、そのシーケンスの「バトル性」に一役買っている。脱出後に見える壮大な砂漠のような場所は「エル・トポ」の意味不明なカルトささえ垣間見える。カルト+ゲーム+広告映像など様々なミキシングがこの映画には詰まっている。そんなこんなでこの映画から新しさとダントツのセンスを感じずにはいられない。果たして自主映画規模でもこのようなシーンは生み出すことは出来るのだろうか。作りたくてしょうがないのだけども。

■最近は意外と「学歴」というものが大事なような気がしてきた。大事でないのだけども、よーく考えると大事。用は大学という期間においていかに独自の研究方法を編み出すかということだと思います。大学という教育機関教育機関ありながら同時に多くの「遊び」を経験出来る時間と猶予を与える期間であると思う。ここでしっかり遊び、また研究をするクセをつけている人が社会に出ても、第1線で活躍しているような印象があるからだ。最近はちょっと根拠のない文章や、妄想で書き立てる文章に出くわすことがある。しかもそれらの人はご立派に「プロ」を名乗っていて自分の経歴を事細かに記し、自身の歴史を見せつけてくる。しかしその経歴ははたしてそこまでの泊なのだろうかと考えずにはいられない。泊には泊でちゃんとした価値があるものでなければそれは信頼する泊にはならない。自称ジャーナリストや自称プロデューサー、自称編集者をあっさりと名乗れてしまう便利な時代は肩書きを自由に持ててしまう。特にこの業界に入ってなのだが、そういう文章を見ると果たしてこの人は「本物」なのか?と疑問を感じるようになってしまう。それらの人に共通するのは学歴に大学に行った形跡がないことが多かったり。これは差別でも何でもなくて、ただ「研究」の仕方を知らないままに育つと、気づいたときに根拠のない自信や妄想による意味不明の理論武装によって身を固めた人間になっていることが多いのではないかと。だから社会常識というよりかは自分のルールによって根拠のない武装を生んでしまう。

僕もついこの前でそうなりかけていたことに気づいた。根拠も確証もない映画の感想をツイートをしては何だかその映画を分かったような気がしてしまう。しかしそこでちゃっかり古武さんが叱ってくれる、怒ってくれる。最初は怒られる意味が分からなかったが、そこで叱る理由は「本流」にない作り手やインチキな自称作家にはなるなという暗に意味するメッセージがあるような気がしてきたのです。仕事は怒られないためにするものだという中川さんの主張に僕は合点がいった。怒られないように頑張れば、その要求するハードルをいつしか超えていこうとする。よく頑張っている人が「叱ってくれる人がいなくなってしまった」と嘆くときがある。あるポジションを抜け出し中間管理職となってしまうと、そんなことも心配になる時期がいつかやってくるが、それは堅実に本流を歩いて行った人が言える言葉なのだと思う。

あることがきっかけである人たちのブログを見出したりしたが、よーく観察してみると勉強をしている形跡が全くない。見せているのか、見せていないのか分からないが、経験を元にして言っているように見せてその経験は成功体験でもないので、根拠になっていないことが多々あったりする。一体何の自信があってこんなことが言えるんだろうか。何でこんなにポンポンと企画に飛び込んで一喜一憂出来るのか。何となく偽物の香りがしてくる。一体どれだけ毎日映画を見ても映像のことなんてさっぱり分からないのに、ちょこっと映画を見ただけで表現のことを分かったつもりで書かれるとたまったもんじゃない。ましてやその8割が妄想で書き立てられたものであったらその8割の文章はインチキであり嘘だということであり、ただの「自分LOVE」の形跡でしかない。「自分LOVE」と論はあからさまに違う。しかし全ての感想が論である必要性もない。好みの問題はしっかりと存在するから。だからせめて研究する姿勢は見せないと。勉強をしていることを提示した上で語らなければ信用には値しない。学生のmixi日記をそのまま自分論にして語っている大人の存在にビックリしてしまった。と、同時に自分もアブねーと気を引き締めた次第。自分のブログなんてのはただの勉強不足を露呈する板。ただこれを書こうとすると発見があるので、少なくとも続けた方が良いと思っているので、書いてみているがなるべく妄想で書き立てたり、その文章で何かしてやったりなことを書こうとするのは辞めた方が良いなと思った。学生時代に見た映画の感想を書きなぐったブログ日記を続けていた。たぶんそれがあったから卒制が上手くいった部分があったので今この状況で日記を再開した目的はそれによるものが多い。自信なんてないから、映画を見る。本を読む、まとめる、感想を書く、研究する。しかしそれらを放棄した自信は違和感を覚えてならない。もっとタチが悪いのはそれでしっかり金をむしりとろうとする現場があることだ。ひたすら反面教師にするしかないと思った。「俺ってこんなにすげー」をアピールし、それを善としてるのだからもうやっていることは泥棒ですよ。

多分自分も回りが見えなくなるとそんな部分もあると思う。謙虚さを忘れてエゴを振りまこうとすると「俺」が爆発してしまうことが。そんなことも多々あり反省してきたのか、してきてなかったのか分からないが、良い年こいた人がこんな感じで怪物化しているのを見ると、まだ今のうちの年齢に謙虚に研究を続けた方が身のためだなと思いました。そんなやつの文章なんか見なきゃ良いのにと思うのに、見てしまうのはもはや呪いにも近いもののだが。個人発信の時代だからと言ってバカなことを露呈して表現だと勘違いするのはダサい。そんなインチキなんかより堂々と「インチキ万歳」を掲げ本流に迫るパロディを見せる学生プロレスの健全さがよほど際立つ。

こんな文章を書いている暇があったら、さっさと仕事をすれば良いのだが、ちょっと腹が立つことがあったので、書き記した。あんまりインチキをするのなら、こちらも根性ねじ曲げてチクりといく準備はあるということを示しておかないと一生舐められて生きることになってしまうので。私を見下す暇があったら映画だの小説だの、美術作品だの見なさい。学生さんはもっと勉強していますよ。自分史に酔いしれている暇があるなら、本流の表現をもっと勉強しなさい。

何だか自分に言い聞かさせているような感じになった。ブログなんてほとんどは個人の感想の垂れ流しなんだから価値はないですよ。それでも視座があるブログはチェックすることで、その価値を感じることだってある。価値があるのは「編集」された情報なのだから。そこに編集が介在すれば価値は生まれようとする。だから妄想や根拠のない自信の文章で金をとろうとするのは腹が立つというお話です。

そんなことを考えていたら町山さんのこのエントリにぶつかった。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040625

自分も本当は映画とかプロレスとかおっぱいのことだけ考えたいけどいつかは政治やインチキなものに矛先を向けるかもしれません。

妄想は妄想でも滝本誠さんの文章は流石でした。文章に酔いしれ、その映画から派生される妄想を楽しみました。