シアターN

■編集、微細な作業をしっかり。

■気が狂いそうになりシアターNに行く。渋谷の雑踏が僕には落ち着ける場所になってしまった。ここでまだまだカルチャーを見たい。

シアターN渋谷『アップサイド・ダウン:クリエイションレコーズ・ストーリー』監督:ダニー・オコナー
インタビュー映像を構成し、当時の出来事、歴史を振り返っていく。またビジュアルの話になるとインタビューの映像が深いモノクロでセンスが良いのと、徹底してイメージの映像のカットに動きをつけて退屈さから避けるようにしている。ただ空中キャンプさんのブログに書かれているようにインタビューの構成で「映像に動きがない」という感想はもっともだ。

ここで言う「映像に動きがない」というのは実はドキュメンタリーのビジュアルにおいて非常に重要な問題点や議論になる点が潜んでいる。ドキュメンタリーの場合、ある二つのタイプに分かれる。インタビューの集積によって事実であることを浮き上がらせるタイプ(煽りVTRなどはこの部類)、カメラを回しながら今、起こっている動きを捉え何気ない瞬間を捉えていく観察タイプ。この二つが同時に起こっているものもアメリカ映画では多いのだが、今作では極端なまでに前者だ。しかし映像に動きがないわけではない。厳密に言えば映像は動きっぱなしだ。当時の映像にエフェクトをつけたものを非常にテンポの良いカットでMTV風に仕上げている。映像は絶えず動きっぱなしだ。だが、何故動いている印象を与えないのか。それはインタビュー自体が椅子に座りっぱなしで当時の状況を振り返っているに過ぎないものであり、その上に動きのある映像を被せているだけ。インタビューをされている側は環境によって心境を変えるといった様子を見せない。だから予定外のことは起こらない。

インタビューによる構成で作るドキュメンタリーはとても王道だ。2009年の山形の大賞『包囲:デモクラシーとネオリベラリズムの罠』は本当にインタビューだけで構成されており、その上に被せる映像もない。これは極端なまでにジャーナリズムをシンプルな形で提示してみせたのだが、やはり人に見せるといった様相は見せていない。うってかわって『インサイド・ジョブ 世界不況の知られざる真実』ではスコープ画面で迫力のあるインタビューの集積と、ナレーションによって見やすさを付加していた。ここで見せる形態の違いはどこまで観客に委ねるか、説明を加えるか程度の違いでしかないのだが、このインタビューの集積によって映画を作り上げることは相当な構成力が要求されるだろう。何たって煽りVTRでさえ5分のVTRは長いとさえ感じられるのだから、そこに映画としてのカタルシスを得られるように構成するのはよほどのユーモアや切り口がないと。マイケル・ムーア作品のそれはインタビューと語り口のナレーションが主たるも、ムーア自身が登場し「アクション」することによって映画を予定調和なものにしないように周到に構成、編集をしているであろうと思われる。ムーアのスタイルはドキュメンタリーで出来うるであろう様々な手法のサンプリングであり、またそこにムーア自身の主観や意見を全面的に配置することによって「ムーア監督の映画」にすることに成功していると思う。

『アップサイド・ダウン:クリエイションレコーズ・ストーリー』はそういう意味では過去を振り返ることに徹しているので、壮大な歴史ドキュメントとも言える。ただしそこで「動きがない」と思われるデメリットをしっかりと考える事がドキュメンタリストとして必要な姿勢だろう。何故に原一男森達也のドキュメンタリーにはワクワクする要素があるのか。そんなカメラが生み出す主観性にはもっと敏感にならなくてはならない。そういう意味ではそんなドキュメンタリーの要素が極めて現代的にかつメディアの今を見せてくれた「ティーンエイジパパラッチ」はやはり傑作でありました。


シアターNでやっているドキュメンタリーのドラッグ率が半端ないことに気づく。だいたい勢い付いてドラッグで身を破滅しかける→けどやるんだよ!っていうパターン化。けど日本人はなかなかそんな人生過ごせないからテーマが「非モテ・童貞」論にスライドしがちなんだろう。あくまで傾向だけど。


シアターN渋谷『七つまでは神のうち』監督:三宅隆太
非常にオーソドックスな作りのオムニバス型の構成で作られたホラー。こういった映画を見ることは「インディー」で出来ることは何かということを考えさせられる良いキッカケになる。この作品自体はあえて危ない足を渡らず堅実な演出を試みているように感じた。教科書通りの丁寧なショットとおどかし、音響設計はベーシックに演出をすることがインディーでも重要なことを示している。プロレスでいうところのヤス・ウラノの試合を見ているかのようなね。ただそこにはそれ以上の驚きもそれ以下の感動もなかった。「死ね死ねシネマ」は演出が破綻している部分はあるものの、とんでもなさや映画に宿ってしまったある一瞬を捉える隙間があった。本作はその丁寧さがかえって狂気性を引き出せない状態で終わってしまう事の証明でもあったような気がしてしまう。このようなスタイルでは『悪魔のいけにえ』のようなホラーは恐らく作ることが出来ない。恐らくはロメロのようなアプローチも無理だろう。それは丁寧であるが故に「欠落」がないからであり、作品を愛おしく思える瞬間には「欠落」が存在していることがキモであったりすることと関係性が深いような感じだ。たぶん本作は2度見ようとは思わない。2度見ようと思う作品への愛おしさとはどこかに粗があって人間らしい部分があるからではないかとも思うのです。日南響子は可愛かった。あとレギンス女子は日本映画特有の売りになりうると思いました。

■三宅隆太監督の舞台挨拶で撮影場所の静岡県小山町が低予算映画のメッカだということを初めて知った。何と自分の卒業制作も小山町で試合をしているシーンがある。ドキュメンタリーとはいえ映画の神様にでも見守られていたかのような気分になってしまった。偶然なのか必然なのかさっぱり分からない

■こうやっていつも深夜にインディーズビデオの編集・制作作業をしていると自分は世間と対峙しているのか、いないのか分からなくなる。でも今日見た『アップサイド・ダウン』一つのインディーズレーベルのお話だけども最終的にジャンルを越えてインディに生きる人たちへの讃歌になっていて勇気をもらった