パーティー

■マンプロ編集、カラーコーティング作業。

■品川で映画関係のパーティーに行く。行くか迷ったが、猛烈に後悔しそうな気がしたので、遅刻して駆けつけた。案の定アウェーだったがいくつかの出会いと、インディペンデント監督と知り合えたので結果オーライ。竹原慎二中澤裕子を主演に据えた前田直樹監督の「ファイティング・オカン」ワクワク。家にあったアイドルDVDに出演されていた方もいらしていたりで、変なデジャヴ感。やはり「場」に出ないと始まらない。

■『@DOMMUNE---FINAL MEDIAが伝授するライブストリーミングの超魔術!!!!!!!!』著:宇川 直宏
DOMMUNEというメディアの始まり、実験と「映像」というジャンルへの飽くなき探究心を示した一冊。個人的にはDOMMUNEのチャレンジを記した後半よりも「映像」メディア全般に触れた前半に感銘を覚えた。四六時中に多くの映像に触れている現代。間違いなく他者や自分といった存在を繋げている要素に「映像」は欠かせないことを示す。特にこの本で示されるのはライブストリーミング、つまり生放送される映像とそれを見る人々とのやり取りで生成される場や会話、さらにそこから生じる音楽によって動かされる身体の存在だ。ustの登場によってかつてテレビの魅力が「生放送」にあったことを逆説的に浮き上がらせ、Twitterの登場によって生じるTLがそこに会話やコミュニティといった運動を生み出すことを宇川直宏は訴える。そこに生じる可能性の動きを連日アーカイブし「記録」することによって現代美術ならぬ現在美術作品としてそれはメディア芸術祭アート部門にもアピール出来る「作品」になろうとするという姿勢である。宇川の試みは膨大な映像の洪水からこれまであったテレビメディアのメリットを駆使した壮大なアートフィールド。生にこそ生じる「共有感」と「場」がさらに身体を動かせ、先日未遂に終わってしまったもののフェスを開催しようとした。こんな運動を短期間に作り上げたからこそDOMMUNEがファイナルメディアを自称するに値することを裏付けているだろう。

しかしいくつかの疑問も残る。映像の歴史で今も語り継がれているものは「作品」としての体をなしたものがほとんどだからだ。周到に構成、編集されていく。「笑っていいとも」は毎日生成されながらもその一つの回が後に語り継がれることはほとんどない。あくまで「いいとも」という集合によって生じるものばかりだから。「映画」という形になったり、「テレビドラマ」といった視聴者に拘束を要求する映像の形式になっているものこそメディアが一人でに動きだしアーカイブされていくような気もしてしまう。Youtubeに氾濫する映像は「編集・構成」はされてはいない。その氾濫した映像を誰もが簡単に扱えるが、それを後に形に残すのは「編集・構成」という意図を持った時点から始まるような気がしている。「ゴダールの映画史」が良い例ではないか。映像が語り始めるのはそんな意思をもった「監督」の存在に他ならない。あくまで生の映像はその手前の段階だ。と、同時にその手前の映像が可能性を持ち始めた事も否定出来ないのだ。だからこそ映像の価値観は変容し、また何度も更新されていくのだろう。