働く

■事務所の地べたで普通に8時間快眠してしまう。それはそれで問題ありだ。

フィンランドサウナで風呂。意外と久しぶりに行った。

■編集。もういやだという気分になるくらいに分量が多い。しばらく何もしたくないと思うようにも。けど仕事はきっと何かに結びつくだろう。

■映画祭関係からのメールやら手紙、封筒等が最近よく届く。未だに卒業制作作品に関する事で。もういい加減賞味期限切れを起こしてもおかしくないと思っていたら、Facebookからメッセージが届き、招待したいという旨の内容だったり。自分がしらないところで、作品がひとりでに動き出しているというのは作り手としては嬉しいことであるし、それこそがインディーズ映画の一番の利点であり醍醐味だと思う。しかし、自分はそれ以上に違うことを懸念してしまう。次の作品に手がつかないからだ。厳密には今年に入ってから作りまくっている。しかしそれはあくまで会社での仕事でそれらは自主制作規模ながらも、自主制作ではない。プロレス業界というフォーマットに即した需要があった上で私はここまで何本かの作品を作れてきた。煽りVTRとやらも任される本数が劇的に増えており、この制作によって頭を悩ましたり、体調を崩したりする事もしばしば。有り難いことではあるが、なかなか複雑な気持ちにかられることもある。煽りVTRの成分は意外にも最大公約数的なフォーマットに乗っかっている。基本的にはそれが求めるのは「分かりやすさ」であり、また映像、音だけで伝えるだけでなくテロップを巧妙に配したテレビ的なものだ。テレビが悪いということではない。元々がテレビのプロレス中継や格闘技中継の発展の中で会場VTRが誕生していった中ではほぼ必然の動きなのだ。しかしその一方で映画への渇望が発生してしまう。自分が卒業制作で作ったのはあくまで「映画」だ。学生プロレスの友人にも「煽りV」を模倣し率先して製作していた仲間はいたが、自分はそれらの模倣を求めていたわけではない。映画をあくまで求めた。自作の中でも分かりやすさを考慮した面は多々あるが、それでも観客に人に考えさせる余韻や隙間を作ったつもりだ。プロレスを見ていない人にも何か刺さるものを自分の中では工面したつもりなのだ。

だが最近は映画が作れるのか、作れないのか自分の中で葛藤が始まった。分かりやすく言えば現実を見始めた。このままプロレスの映像に特化した映像屋になっても良いだろう。プロレスというジャンルの奥深さは計り知れなく、プロレスへ何かしらの「理解」がある作家を業界は求めている。その一方で僕自身がそれ以外の世界に渇望していることも否めない。

自分の生活のベースがここ数ヶ月定まってきたが、そのなかで今年ゆうばり映画祭、ショーショートフィルムフェスティバルに参加出来た意義は大きい。ゆうばりでは大雪の中で東京では出来ない「祭り」を「映画」でアクションしてしまっていることが凄かった。真冬の北海道に多くのクリエイターやファンが映画を通じて磁場を起こそうとしていることが1年目の自分には刺激的だった。ショートショートはそのワールドワイドさに圧倒された。何かの格闘技大会で世界各国の格闘家が参戦し、自分はそのjapan若手部門のような企画でエントリーしているような感覚だった。ゆうばりもショートショートもたまらなかった。どちらも日常生活をある程度犠牲にしての参加になるが、それでもまた参加したいという気持ちにかられるものだった。仕事をしていく上での素晴らしさは自分が仕事をしながら、中川さんの著書も通じて発見出来た。だがさらに自分は「自主」で何か起こしていくことも生活をしていく上では限りないモチベーションになることを知った。事実学生プロレスでも多くの社会人が「自主興行」というフォーマットでアマチュアプロレスを開催したりしている。そんなやらなくても良いことに全力をかける大人たちを見るとそれを映画で出来ない訳がないと思ってしまう。だからこそ「自主〜」というフォーマットにはとてつもない魅力が詰まっていると思う。