バランス

■東電の社員が2割の報酬削減を検討したり、いよいよ原発問題が誰の目にも深刻化して迫ってきている。雑誌を立ち読みしながら、震災後のフォトジャーナリズムだけで増刊号を作る雑誌も目立ってきた。それだけ福島に世間の注目が集まっている。一方で何ら激しい変化をすることなく、ただ目前の仕事が迫ってきている日常を生きている。自分はというとそんな雑誌をペラペラめくりながらも、時折グッとくるグラビア記事に目を止めたり、原発の記事をじっと読んだりしている。最近は「自分に出来ること」という議題がよく挙がるようになった。自分に出来ることとは何だろう?と考えるとキリがないテーマだったりするわけだが、おおまかに言えば「自分の出来る仕事や生活を続けながら、被災の状況を確認し意見や思想を持つ」ということになるかと思う。改めてフォトジャーナリズムが強固なものとして目前に迫っている再認識は、そこにメディアを通じてでしか被災地の現状を見ていないことを浮き彫りにしている。そこにはジャーナリストやメディア人による意思や、仕事があって伝わっているわけだが、そこに存在するメディアの多さは「自分もやらなきゃ」を別の意味で「焦らす」感情さえ沸き立たせる要因にもなっている気がしてならない。そこには十分に啓発的な意味合いさえあるのだろうが、そこはジャーナリストたちの仕事や能力があってきちんと暗黙の了解を成立させているが故に、一般の技術しか持ち合わせていない自分は上手く主張することが出来ていないように思えた。

気がつくと市民メディアの記事を覗くことが極めて多くなった。今いるプロレスのフィールドもある種の狭い世界の中にいることは間違いなくて、そこで仕事をしているときに、震災記事を見るとやはり違う焦燥感がわき上がってくる。自分もかつてはテレビ局員だったので、自分が被災地に行って記事を書いていてもおかしくなかった。振り返るとそういうことが思い起こされるのだ。「だったら〜」の話になってしまうが、やはり元テレビ局員の呪縛というのは、その感情であったり、社会的地位を無視するような気持ちにはさせてはくれない。市民メディアの洪水であるTwitterのTLもだんだん疲れてきた。気軽にやれることがメリットであるTwitterは晒さなくて良い「編集されていない記事」のだだ漏れも目立つなという意味合いが多少なりともあるということが分かってきたのだが、それもフォローする人を自分で「編集」すれば良いだけの話なだけなのだが、そこには意外と自分がどう思われたいかという自意識も少なからず含まれてしまうので、やはり使い方は用心した方が良さそうだ。

結局、雑誌の記事を見るとそれはそれでしっかり伝わってくる部分があるのだということが分かった。編集の信用性そのものが疑われている昨今ではあるが、編集をしっかり施している安心感もまた絶大なものだということが。本の編集も、映像の編集も意味合いは違うようで、本質的には一緒だ。どの記事を捨て、どの記事を見せるのか、どの映像を見せて、どの映像を見せたいのか。改めて編集マンの意思が大きく介在していることが、分かる。震災後に感じることは「編集」ということ。「編集」しないメディアの流行、編集をするメディア(テレビをはじめとする)への不信感は増加の一途をたどっているが、自分が何らかのエンターテイメントを編集する側になって考えてみると、そこにあるジャーナリストの意思について考えられずにはいられない。そしてどうも僕の関心は、この状況下における「私的な視線」ということになりそうだ。改めて私的な視線が多く介在する中で、視線はメディアに向き、メディアを見た上で視線が無意識の中で誘導されている。市民メディアが台頭しようが、視線は常に誘導されている。

震災記事を伝える雑誌のグラビア記事に目が止まるようになったのは、無意識ながら重要な気がしている。瓦礫の山の写真をじっくりと見るとなかなか辛いものがある。それは一種の救いようのなさで、「暗い記事」を見ると、何かお口直しがしたくなってくる。そんなときどうでも良いようなグラビア記事が良い清涼剤になって目前に迫ってくる。自分たちが見ている現実と「どーでも良いこと」は実は表裏一体の関係性を築いていて、ここに多くのヒントが隠されているような気がしてしまうのだ。

ここで「映像」はどうすべきか。こんな状況でさえ、アダルトビデオの映像は個人単位で人を救っているかもしれないし、テレビのニュースは多くの人に「現実」を伝える役割を担っている。映像の目的が違っていても「無関係」ということはあり得ないのではないだろうか



■全然関係ないけど、大学の先輩と久しぶりに飲んで、飯を食べた。ふと記憶によみがえったのは大学の「芸術祭」や「新歓」だった。確か大学2日目に自分の学生生活はピークを迎えていてた。あの楽園感は何だったんだろう



■雑誌「ぴあ」が休刊するそう。一時期はカルチャー雑誌の総本山として、映画館をハシゴする人たちの鞄の中には「ぴあ」が入っていたなんて時代があったけども、いよいよその形態が完全になくなろうとしている。ぴあは映画や演劇、ライブ、エンタメ興行の総合誌だったので、更にそのカテゴリーの中にある専門誌がどう変化していくかが見物だったりする。おそらく専門誌は何らかの形で電子書籍等のメディアにプラットフォームを移したりするのでしょうが、形態自体の縮小は避けられないでしょう。ならば興行を主催する側はどのような形態を保っていけば良いのか?もはや専門誌に情報を載せてもらうために頑張るということがナンセンスなのかもしれない。メディアの集合地である雑誌、テレビに「価値」があるかどうかは、確証が得られない。だからこそ、自分たちもしくは個人が総合的な発信力と制作力を兼ねるしかないでしょう。