4月10日〜17日『英国王のスピーチ』にアガらず、『エンジェル ウォーズ』にアガる

■何かと興行の準備やらでやたらと慌ただしかった。こうやってVTRを作らせてもらったり、素材を集めるのを手伝ったり、夜な夜な興行を作り上げるためのメディアを作っていると、「映画」との違いだとか、お客さんが何を見に来ているのかとか色々と考えさせられる。興行の進行とかを考えると、映像がなかったりする方が良いのかもしれないと悩んだり、じゃあなかったらでその試合の「意味」や「焦点」は伝わるのか?と言ったら言い切れないし。そういう部分で常々反省や、次に向かって作り手は何かを学び続けていくのかもしれない。興行の映像は試合の前菜だったり試合後のデザートという面が多分に多いから、そうなっていくとメインディッシュも作りたくなるというのがサガじゃなかろうか。だから一方で自分自身がちゃんと映像作品として完結したものも作り続けていかなくてはいけないという自分自身への煽りみたいなものも日々生まれていくんだけども。4.13の新宿大会が終わったらぶっ倒れたように寝てしまった。慌ただしさから解放される安堵感もあるが、最近は一杯くらい酒が飲みたくなる高揚感もありつつ、飲む前に寝てしまうのだけど。金がないから、あまり飲みを誘ったりとかに積極的になれていないのだ。皮肉にもあれだけ散々飲まされるのが嫌で嫌で仕方がなかったサラリーマン時代もあったはずなのに、こうやって酒が飲みたくなるなんて。ビールが恋しいこのごろ。

■4月15日に吉祥寺で撮影。案外サクッと終わったのは思いのほか現場の進行がスムーズだったから。自分がいたからスムーズだったわけでもなんでもないので、自分がそうなるようにしなくては。

■DVD『アギーレ・神の怒り』監督:ヴェルナー・ヘルツォーク
ヘルツォークが盗んだというカメラで撮影されているそうだ。非常にドキュメント的に撮られておりながら、紛い物感されあるその人物の虚構性など、その世界観がやっぱりヘルツォークの映画なんだと思う。自然の中でただ呆然と映される猿や馬といったネイチャーな絵図の意味とは何なのか?と考えてしまうが、さして深い意味はないような気さえしてしまう。たぶんそれは感じる側の問題だとも思うが、こうして意味があるようでないような、動物のショットを差し込むことがヘルツォークの作家性ともいうべき視座なんだろう。

■TOHOシネマズ府中『英国王のスピーチ』監督: トム・フーパー
なんだかいまいち乗れなかった。何故だろう。映画自体に緩急がなかったからとか、そうとも言い切れないのだし、題材がどうとか、キャストがどうとか色々あるけど、自分が好きな映画ではないことは確かなんだろう。前に乗り出して観たくなるものではなかったというか。。自分にしてはめずらしく観る前も「英国王のスピーチ」を観ようという気持ちが全然上がらなかった。アカデミー賞だからやっぱり観なくちゃなーと思いつつ、ようやく観たわけだけども、やっぱり観なくても良かったなという映画で、自分のテンションとどう折り合いをつけて良いかまったく分からなかった。とはいえフラットの画面に映えるアングルや、画角にはただただ贅沢なひとときを味わったなという実感があった。あの画力は学ぶべき点が多い

■DVD『絞殺魔』監督:リチャード・フライシャー

■DVD『教祖誕生』監督:天間敏宏

新宿バルト9『エンジェル ウォーズ』監督:ザック・スナイダー
ストーリーを破綻させることを可能にさせるストーリー。すなわり妄想世界だから何やってもオーケーで自分の好きな世界を可能な限り具現化していったザック・スナイダーは偉いなと。一言で言うとエンジェルウォーズという映画は「夢」そのものだと。しかもその夢というのはクリエイターの視点におけるもので、僕はこのキャスティングで、この衣装を着てもらって、こんな場面を演じてもらいたいという欲と妄想。監督の妄想そのものがストーリーの妄想世界だと見立てるならば、エンジェルウォーズはザック・スナイダーの頭の中そのもの。『脳内ニューヨーク』のような頭の中の具現化に苦しむ男のセルフストーリーのような形式は関係性が回り巡ってかえって難解な印象を持たせるのであれば、ストーリーの中で妄想世界を作り上げるということに徹した構成はむしろ見事とさえ言える気がしてきた。

重要なのは『マチェーテ』のようにきわめて軽いノリで作れてしまう物語が実に重要になってくるのではないかという部分で。リアリティー志向の世界が一周しきった感もあるなか、今後の映画に隠れたヒントがたくさんある気がしてしまいます。