読書の新年。

□まだ無職中です。結構精神的にしんどくなってきました。まあ何たって「給料日」という存在もなければ、労働をしに行く場所もないんで、締まりがない。これじゃダメだなと思いつつも、やはりこの期間中に充電として出来ることをせねばと思う毎日。

大学生活はただひたすら映画を見まくりました。それは自分自身が映像表現という場所に向かう上では必要不可欠な生活でしたが、年に300本を観たりする生活をすると、逆に全ての映画を観なくても良いなともようやく思えてきた。シネコンでのバイト生活時代は無料鑑賞が可能ということで、ランニングしている映画は子供作品や、アニメ作品を除いてはほとんど観るようにしてましたから。そんな一方で明らかに「時間の無駄」な作品も当然多くある。もちろん時間は貴重だし、無駄な時間を過ごせないわけがないのだが、この情報時代と、お金の節約のためにはある程度の前評判を聞いた上で劇場に足を運んでも良いのではと思うようになった。

そんな中で、映像を観る行為を離れたと思ったら、急に活字を読みあさるような日々が始まりました。これは自分でもビックリでしたが、およそ自分に足りないものが本にはしっかり書かれていると直感で思ったからで。いくつかの本を取り上げて総括したいと思う。

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)

ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)

わたしたち消費―カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス (幻冬舎新書)

わたしたち消費―カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス (幻冬舎新書)

さよなら下流社会

さよなら下流社会

そのどれもがTBSラジオLifeでおなじみの鈴木謙介氏の著書である。Lifeは冠に文化系トークラジオと銘打っているだけに、文化系というジャンルに漂流する言葉を汲取り、現代、過去を様々な文化人の視点で総括する番組だ。

私が文化系という言葉をより意識するようになったのは、やはり会社に入社してからであった。およそ体育会という言葉がピッタリとハマる組織に入り、自分を見失うようになったことがキッカケである。体育会といっても、高校時代はアマレス、大学はレスリング部で、一時期の趣味はウェイトトレーニングなんだから、自分も体育会系の組織には適応出来るのでは?という思いもあったことは事実だ。だが現実は違った。こんなことをやる意味があるのだろうかというような、意味不明な新入社員へと向けられた体育会ならではというべき一連の行為に直感的に「そんなことは今の時代」には必要ないと思えたから。具体的に書くと、とんでもない量の飯を食わなくてはいけない(クシ揚げを100本食え!吐くまで食え!etc)などなど。そんな「仕事」と関係ないことで変な根性論を持ち込まれても、僕はそんなことをしたくて会社に入ったんじゃないという思いがグルグル回る。これを被害妄想だと言われればそうなのかもしれないが、二度とそんな状況には戻りたくない。まるで軍隊のようなシステム、それを耐えてこそ一人前という価値観に「何だかな」と思ったのであった。

確かに体育会系という集団をつま先からてっぺんまで批判するつもりにはなれない。もちろんそんなやり方が上手くいくケースも当然あるだろう。しかし時代は確実に変化している。串揚げ100本を果たして一流スポーツ選手がするだろうか。日本代表に選ばれた選手たちは自分たちのパフォーマンを最大限にするために、理にかなった組織論、体調管理をするのではないか。これは弱音を吐くというよりは、その組織の在り方に疑問を感じざるおえなかったということである。

さて、鈴木謙介の一連の本はどれも体育会系という言葉がキーワードになることはない。当たり前だが、それを主題にして文章は書かれていない。何故ここにきて、鈴木氏の著書を読むモチベーションになりえたか。それは自分がメディアに振り回されていた典型例の若者であったということに自覚的になったからである。