AKB48 2014年01月27日のツイート

AKB48のユニット祭りに。一大帝国を見た。システムもそうだが、確実にその一つ一つの個と物語が存在している。ユーザーである我々はその中の一つが必ず見つかるようになっている。当たり前だけど、あれを見れば絶対誰かを好きになってしまう。何てシステムなんだろうか。およそ自分自身が思い出したのは、学生時代に自分の中で好きな子や、好きな子になろうとするような子がいないクラスに該当してしまったときのつまらなさだ。あのつまらなさと言ったらない。ところがどうだろう。AKBは必ず自分の好きな娘が見つかってしまう。どう考えても凄いバランスでルックスが良い娘が揃っている。しかもどれかにルックスから入れる入り口がある。ビックリだ。そして高級感が違う。パフォーマンスのスペックもだが、これがメジャーアイドルなんだと感嘆した。たまげたな。曲のバランスや、ユニットの組み合わせなど、もうその妙でお客さんを掴んで離さない。ここから下降線になっていく様子が浮かばないのだ。参ったぜ。出力される映像のスイッチングの早さ、クレーンのカメラ。映画館のライブビューイングとして中継される映像の迫力とハイスペックぶりにもビビったぜ。もうどうしようもないぜ、今成。

新宿バルト9で『オンリーゴッド』。賛否両論という部分では自分の中にはそのどちらもあった。賛という部分ではよくこの作風に踏み切れたと言えるだろうし、超越的な存在である神を描こうと試みている点。物語に存在すべき最低な要素のみを残して、進んで行く点。その画面構成、色彩にうっとりとしてしまう映像美。しかしそれらを差し置いても、ゴズリングをもっと魅力的なキャラクターとして扱えるであろうし、もっと物語を与えることも出来たと思うし、何かが放棄されて、観客を突き放しているとも言える。そういう意味では正当に評価されずらい。評価そのものを観客に預けに来ているとも言える。僕はどう思ったか。

神への挑戦。神の存在とは映像で何かを語る上では避けられないということを思った。ナレーションだって神の視点といえるだろうし、編集している側こそ、その映像の中では創造主である神に値する。しかしながら神が罰するという形でこの映画は登場してきた。そこに理由らしき理由は存在せず、無慈悲に罰を加えて行く。そうすることで、神のみぞが知るその何かを提示しようとしたのだろうか。

ならば僕は普段からどんな神と向き合っているのだろうか。許しと罰は自分にはどういう形で享受されるのだろうか。しかしながら神という存在を認知するレベルで、創造と向き合わなければそれこそ罰を与えられてしまうような気さえしている。