冨永戦後に思う

一区切り。

昨日はガンバレ☆プロレス。冨永真一郎と一騎打ちでした。自分の中ではカメラの向こうにいた彼。そしてその彼と肉体を通じて会話をする。そしてあの時の熱を体感する。自分自身にそう言い聞かせてました。

そして答えの一つの中に何か「アマチュアリズム」のようなものがありました。

結果として作ったVも試合もアマチュアリズムという匂いが限りなく出て来た。結果として。意識をしてるしてないとかじゃなくて、それはプロという概念じゃなくてアマチュアリズムだったと思う。

逆にいうと青春っぽいもの=アマチュアリズムっぽさとも言えるし、世間と対峙出来るものとは真の意味でプロの何かを提示したものだとも言えると思います。

そういう意味でも結果としてアマチュアリズムから卒業したかったのかなと思いました。結果的にアマチュアリズムを更新するためには現在系のアマチュアリズムを見せたというか。

久しぶりの賛否両論。良いという人もいるし、ダメ出しもされるVTR。それはまさにアマチュアリズムであったように思えます。想いが先走っているというか、うーん、よく分からないですね。

ただ僕は良い意味でそういうアマチュアリズムに頼ることから卒業を強いられたと思うんですよね。そういう意味でも僕はプロとして徹底していくことが出来ると思うし。自分に対しても人に対してもある程度は鬼になれると思う。そういう水準でものを作ることとか、過去の青春に甘えて生きることは選択しないわけですからね。厳しく生きていくという宣言だったし。そういう意味ではアマチュアリズムとは決別したと。僕の闘いではそういう別テーマがありましたね。プロというのはやはり対価を払って観戦に来ているお客さんの存在と闘うことであり、そこに認められるために頑張るんだと。そういう意味ではこれまでの自分の闘いは終わりだし、そういうものをお客さんに見せていくというのは昨日で終わったのかなと思いました。勿論その中で、僕らしさ、僕なりに見せる世界があることもしっかりと分かった気がしたので。

もう本当に自意識というのは難しいですよ。見せるべきでない自意識なんて沢山あるし、それを制御すべきコントロール(編集)というバランスも含めて。自分の気持ちなんて整理出来ないから長くなるしねえ。それを制御すべき形で編集という技法がある。プロはそれを見せるべきだし、人間が感動するのはやはり隠れて見える編集という技術こそが価値を生むとも言えるんですが、これだけコンテンツのある時代なんで最終的には好き嫌いの二元論にも行き着く気ががします。なのでマーケティングは必須かと思いました。