レンダリング中に思う

絶賛レンダリング中。こうやって俺の人生は映像の書き出しの待ち時間や待機時間によって費やされている。俺が作っている映像はとてもミニマムな世界での映像で、これといって世界中の人が見るわけでもなく、そして地上波のテレビで放送されるわけでもない。実にインディーな世界のビデオを永遠と作り続けている。供給量が勝負で、常に愛用のMacBook Proをマックスで働かせている。試合のスイッチング、テロップを打って、音を差し替えて。これといって創造性のない作業は創造的な映像のイメージからかけ離れて、結構しんどい"労働”という側面の強い映像だと思う。こういうことを繰り返していくと映像と当たり前に接して、映像が日常化され、常に映像と向きあっているにも関わらず、何か機械的な作業をしている自分というか、よくよくはこういう編集さえもが人間の手を使わずに出来るような気がしてくる。こういう取り込み作業や、ある程度の編集すらもが機械やロボットがしてくれる世界が来るような気がしている。全部プログラムされ、映像は半ば無限に量産されていく。やがてそんな世界が来ていきそうだ。iPhone内で映像の撮影、編集、アップロードが出来る時代になったことを考えると、本当にこういう機械作業は将来的に機械がやってくれるんじゃないかという謎の希望的観測があって、何だかやるせない気持ちと、この作業そのものが"労働"を実感させてくれる重要な行為でもあっていささかアンビバレンツな感情がうごめいてしまう。誰もいない事務所に一体どれだけの創造性と刺激があるというのか。私はいつもこうしてMacBookと連携することで生かされてる。いやー、Macは大発明だよ。だいたいこれがあれば色んな仕事が出来てしまうし、ある程度のスキルを覚えればある程度の映像はこれ一台で出来てしまうんだからマックマンセーなんて気分だ。半永久的に機械と接続し、機械から何かを生み出すものとして対価をもらっているものとしては、やはりカラダを動かすという行為、人間と対話をするという行為、衣食住という行為が愛おしくなる。結果としてプロレス団体の映像班に従事しながら、それに疲弊し、プロレスという究極の肉体カンバゼーションに喜びを感じてしまうというのは、何とも皮肉なことであると我ながらに思う。結局のところ僕はプロレスそのものによって世界が閉ざされているのではないかという疑念さえ持つ。しかしながら時間の経過と共に蓄積された私の思想、思念が爆発しそうである。この作業と並行して、様々な本を読み、様々な友人と会話し、様々な映画を鑑賞し、様々な徒労を繰り返して来た私はいよいよ持って自我が芽生えはじめて来ている。昨日のMAでは制作したVTRの冒頭30秒を見て、エンジニアが「今成さん、だいぶとんがってきましたね」と言った。何となく爆発寸前なのだと思った。疲労と放出したくてたまらない幾分かの精子。射精のイメージだ。卵巣のぶつかり何かを生み出そうとしたくて溜まらない。常に勃起している感じ。かつ全盛期であった21歳から22歳にかけてのあの瑞々しい自分自身を取り戻そうとしている。俺は俺自身に期待している。今は俺という人間がロールプレイングされているのだ。同世代の放出するエネルギーが刺激が刺激として受け取られ、嫉妬と批評が介在される。ただ同時に俺は結構ケンカ腰だ。あれだけ喧嘩が弱かった、カツアゲに絡まれていた俺はいないし、上司に口うるさく説教を受けていた俺はもういない。ないものは沢山あるが、金がなくても出来ることの発想が脳内を分泌している。街がストリートが俺を呼んでいる。今年一番刺激を受けたは「オン・ザ・ロード」かもしれない。それだけナチュラルで、セルフオーガニックな気分だ。そうこうしているうちに残りのレンダリング時間は8分になった。なんて長いんだ。高解像度になるだけ人間は待機時間を要す。何て生き物だろうか。人間が繊細に記録したいと願う願望は膨大な待ち時間を要すわけで、こんなに矛盾した出来事を生み出すためのテクノロジーってわけではないと思うが、しかしながら先日撮影した何てことのないポートレートは高精細でなかなか良いものだというか、そこそこの幸福感を与えてくれるので、いっそうのこと映像なんてよりかは写真のほうが幾分気が楽でしょうに合っているのかもしれません。

こういうことをウダウダ書くのは活字プロレスってやつなのかな?