つれづれ9

■GTA5の面白さはそのノワール的な色彩、世界観、登場人物、各エピソードにあるように思える。どれも下品でかつ暴力的な世界に彩られたそれらは非常に露悪的ながらもやはりその世界に釘付けにしてしまうような魅力があるように思える。潜在的な暴力衝動なのか、反体制的な側面があるのか分からないのだが、そんな露悪的に満ちた世界感を提示してみたい、表現してみたいという欲求には常々駆られており、それが時間さえあればECWの動画を見てみたりとか、もうそういう流れになってきてしまっている。(Tシャツにジーンズ、更には有象無象の凶器攻撃、ストリートファイトの運動
が何ともカッコいい)それが出来るのは映画、プロレス、音楽といった表現領域として自由なものに非常に限られて来るのではないかと思い、あれこれ共通点やらなんやらを探しているのですがね、これを東洋人がやってしまってもなかなかカッコ良く見えないというか、東洋人における暴力表現とは何なのかと。難しいんですよね。東洋人がGTAの世界に浸ったところで何だかしっくり来ない。もう文化が違う。そんな文化が根付いていない。そういうものがぴったりハマるものを作ってみたいんですがね。難しいですね。それくらい東洋人がやるとしっくり来ないんでもうこれは何なんだろうと。

■セルフドキュメンタリーなんて10年以上前の表現だのかなーと確かに思うこともあってちょっとyoutubeに上がってたドキュ論聞いてたりしてみたんだけど、セルフドキュの自意識っていうにはその自意識自体がそもそもノレる!と感情移入や共感出来るかどうかの瀬戸際の表現で、まあ確かにノレない状態のセルフドキュほど痛いものもないというね。で、確かに表現としてのセルフドキュが全然業界内で見られなくなってきた。というかインディー映画に元気がないというのが正直なところで、結局デジタル1眼がどれだけ隆盛になったところで、それがインディーの表現にアウトプットされないのであればもうこれはしょうがないというか、何というかね。ただ依然として自意識そのものを表現として求められている部分は十分にあると思います。もう僕はそれがTwitterなんかで断続的にダダ漏れになっているのが凄く不快なんです。俺を見てくれ!というアピールがまさにTweetという行為そのものになっている。何ともバカらしい。人気や支持をされることの尺度であるけど、僕は価値を生むのはやはり「編集」という行為に他ならないと実感しはじめた。自意識と自己愛で満たされたTLを流し続ける人はどうせセルフドキュなんて知らないに決まっている。もうウザいんですよね。だからこそ今セルフドキュやる意味は十分にあるんじゃないかって勝手に自分を説得している訳なんですが。