抑圧

やっぱり向かっていった方が早い。

光留さんのブログを読んだ。
DDTで新人らしさという類いのテーマが話題になっていて、それに関する光留さんの意見の表明だと思う。

いくつかの点でハッとさせられた。

新人らしさとは何だろう。そして僕は新人なのだろうか?
僕が新人であった時期、例えばテレビ局に入った瞬間。あれはまさに「新人」であった。新人という教育を受け、生意気そうなところを直され、新人が通らなくてはいけないだろう関門がいくつもあった。

結果として僕は8ヶ月で辞めた。新人らしさという概念から逸脱した理不尽さが自分の心の中で先行してしまい、その理不尽さが何のためなのか突き詰めきれず辞める事にした。もともとその業界にずっといたかったという気持ちがあるわけでもないし、地方だからとか、テレビとか、その仕事が心の底から好きだと思えるものではなかったのも大きいと思うけども、結果として辞めた。

大学卒業以降はひたすら「抑圧」を感じることだらけだった。逆に言えば自分はそれまでさほど「抑圧」を感じていなかったのかもしれない。兄弟と比べられたりとか、部活動も人数が多くて選抜があるとか、そういう競争の中でいたわけじゃなくて、自由さ、インディペンデントな精神性が先行していくようになっていった。もしかしたらそれは「逃避」だったかもしれないし、今でも分からない部分はある。

だが抑圧に弱い自分がいることに気付いた。抑圧されると本来のお調子者の自分が消されてしまう。調子に乗りたい、騒ぎたいという心の願望がしっかりとある。それを押さえつけるのは結構しんどかったりする。抑圧というのは自分にとってある種の真逆な理念やシステムであるように感じた。

だが光留さんのblogを見たら、その抑圧から解放された何かが、やはり抑圧されているものと、そうでないものとの違いを出せるようになることに気付いた。

竹下選手のインタビューをしてみて、「出来ることをしないのはおかしい」ということも真っ当だと思ったが、僕は竹下選手のような優れた何かがあるわけでもなんでもない。

自分に出来る事が何なのか僕は分からない。適切なフィールドがどこにあるのかも分からない。

でもお調子者である何かが時として人に何か伝えられる事があることもまた分かってきた。じゃないと僕に直接感想を言ってくれる人なんていない。本当は作品の感想を聞かなくちゃいけないんだけど、最近の感想は専ら僕が調子に乗った部分の延長だ。だからそれを作品にフィードバックしていきたいと真剣に考えている。

そして、そのお調子者としての表現はお調子者をずっと続けているから言いわけでもなんでもない。日常の抑圧があって「調子に乗る」ことが光るときがある。だから抑圧って自分にとって必要なもので、そしてそれがしっかりと糧になるんだって段々と分かってきた。

抑圧を与えている人の真意は分からないし、その方法が間違っている事もあるのかもしれないけど、そんなベタな理不尽さがあって産まれるものってまぁ遅咲きだったりするケースもあったりはする。槙田さんの本に書かれていたのはそんなことだった。

思想の闘争は始まったけど、抑圧の解体もまた同時に始まったのだと思った。

抑圧に苦しんでいる自分を笑ってやるくらいの余裕が欲しいけど。
今、諸先輩方が一本筋を通った人が多いのがまた恵まれていることなんじゃないかと。
そのバランスは本当に難しいし、自信になるほど確信なんて出来やしないけど。