■お叱りのメール。やはり仕事とは怒られないためにするものだ。怒られるという油断がパフォーマンスを悪くさせる。
そんな中ふと名古屋の生活が愛おしくなる。ちゃんと休みをとれば休むことが出来た土日。金山でゴロゴロしたり、大高のワーナーに行ったり、それはそれでサラリーマン生活を楽しんでいたのでしょうか。珍しく東京の情報の多さに疲れてしまった

たまにはレジャーを楽しみたいものなのだがね

■シネクイント渋谷『アタック・ザ・ブロック』監督:ジョー・コーニッシュ
面白い。こちらの作品もあえて舞台や日時を限定していくことで、とても見やすい作りになっていた。ある夜中にエイリアンの襲撃に遭う団地と、その団地のワルグループが自分たちの武器や団地の立地を生かし、エイリアンと闘う。単純明快な脚本、設定ながら、小道具や、キャラクターセット、そして圧倒的なテンポと現代的なサウンドトラックがグイグイと作品を引っ張る。90分の尺で収まっているところを見ると、この作品が今後作品を作って行く上で、自分の基準点になりそうだ。(卒制制作時はボーンシリーズを意識した)

また主人公たちは社会悪として存在するギャングながら、どこか憎めない顔立ちのキャスティングになっており、巻き込まれてしまうヒロインのその可愛さ、紅一点の存在が実に良いバランスを示している。主人公たちは社会的にヒールとして存在するが、どこか憎めなくて可愛らしい。そんな彼らが何を目的にしているか分からないエイリアンと闘うことで、次第にベビーターンしていくという構造も痛快だった。

劇映画として作られている本作だが、監督は念入りに事前取材をしていると思われる。「NARUTO」好きのギャングが刀を持ってエイリアンと闘い「忍者みてえだ」という瞬間などなど。よく考えると、そんな台詞が劇映画で自然に出てくるとは考えにくい、極めてドキュメンタリー的であると感じる。拙作のドキュメンタリーでも思わずニンマリするようなマニアックな会話がキャラクターを愛する要因として作用している。これはクエンティン・タランティーノの「パルプ・フィクション」「レザボア・ドッグス」に共通するギャングが無駄話をしていくことで、観客の共感を得やすいキャラクターへと昇華されるテクニックがみられる。

このエイリアンが何を示しているのかは分からないが(襲撃する理由がないという点において)それを執拗に解説したり、説明を省く事で、スタートとエンドをシンプルにまとめることにも成功している。エドガーライトが製作だということだが、エドガーほど悪ふざけをしているわけでもなく、要素をそぎ落とし、文化的に取り入れるポイントをしっかり精査して分かりやすい物語を作っていると思った。

小道具はやっぱり原付き自転車の活躍が見ていて良いなと思ってしまう。

それにしてもヒロインが可愛かった。

■しかしシネマライズの半券割引を利用したのだが、シネクイント系作品とシネマライズの作品はベクトルが真逆になってきたな。

■と、ごちゃごちゃ言いたくなったが、占いで右から左に受け流すことも大事と言われていたのを思い出すだけで少し楽になった。

イメージフォーラム『メカス×ゲリン往復書簡』
お世辞にも映画として完成されているとは言えない。実験的な試みであるのは確かだが、よくある「イメージフォーラム」系の一つともとれなくない。ゲリンのしっかりと狙いすまされたショットに対して、メカスのそれはヨボヨボのお爺さんが撮影したブレブレの日常だ。であるがゆえに実に退屈な映画のはずであるにも関わらず、これは映画を探求するための映画であることが次第に分かり、その言葉や、ショットがどれだけ我々若手映画作家を勇気付けるものになっているのか、やがてそれはメカスの言葉によって証明される。地下映画作家大御所のメカスが「今日まで撮り続けてきた意味が未だに分からない」と言いながらも、夢想することに撮り続けてる、夢想家を作るため、夢を見ることだけが希望だという台詞を残す。どれだけ毎日キャメラを回しても、それが何のためなのか分からないと言い切ってしまう。しかしながら現実を撮り続けることは、夢想家になるため、つまり現実に出来そうにもないことを考える人になることであり、そんな人物を養成することに他ならない。一見するとただのアホになれということのようだが、そうではなくこれはドキュメンタリー映画を制作することは夢を見る社会を提示出来るようにするということだ。現実はこんなんだけど、そんな瞬間が愛おしく、また人間の美しい肖像は生まれてきたことそのものの喜びを感じたくなる。今そこにしかない瞬間を撮るドキュメンタリー、そして日記とはその先の夢を形作る可能性を提示するもの。映画撮影の欲求とは、夢を見たいからに違いない。夢があることは活力なのだ、喜びなのだ。それを否定することに何の意味があるのだろうか。僕が映画を撮ろうとする理由は夢想家だからだ。あり得ない未来世界を、見れる可能性のある映画を作ることで体感したいのだ。きっとそうだ。ありったけの現実は背負わなきゃだけど、あのメカスの幸せそうな笑顔を見たらきっと大丈夫な気がしたんだ。だから港さんのクラスにいたのも今なら納得出来る。またこの夢の意味はヘルツォーク監督がフィッツカラルドを撮影したエピソードで語った夢と一緒だ。「もしこれが実現出来なければ僕は夢のない男になってしまう」夢のない男など死んだも同然なのだ。

新宿バルト9アメイジングスパイダーマン』監督:マーク・ウェブ
監督は難しい題材に挑んでいるだろうと思った。どれも漏れなく一定以上のクオリティがあるのだが、作品の中で何故に茶目っ気がないのだろうか。ライミ版はどうなっていたかもう忘れてしまったけど、ライミ版は確かに茶目っ気があった気がするんだけど。キャラクターの魅力と、ダークな質感なのか、