『きっと ここが帰る場所』

■DVD『バッドルーテナント』
改めてニコラスケイジ演じる主人公の圧倒的な狂人っぷりの牽引力と、フェルツォークの持つ誇大妄想狂と、おかしな事がニューオリーンズという摩訶不思議な街で起こっているというバランスを感じた。園子音監督同様にヘルツォーク監督にとってもカメラワークや画角といった要素はさほど重要ではないように感じた。それ以外の狂気、狂人の存在が映画にどれだけ重要か。ニコ生を見て思ったニコニコで騒がれている人よりも大家健の方が遥かに凄いと感じたそれとも似る。

■諸々の映像作業。疲労が凄まじい。

シネマライズ『きっと ここが帰る場所』監督:パオロ・ソレンティー
意外といい加減な作りというかとんでも映画なのかという気がした。ロードムービーの範疇に入るが、紆余曲折する中で亡き父が復讐しようとしていたナチスの残党の元に向かうという方向へなだれ込んだり、トーキングヘッズが脈絡なしに登場したり、「重層的」という言葉が先行しがちだが、単に出鱈目な映画という気もする。しかしそれがまた映画として別の魅力を放っているようだ。「いつしか人生を諦める年齢になっている」等の台詞にははっとされる。主人公が空虚な存在としてゴス・ファッションに身を包む「変な人」としての象徴。空虚さを満たすための化粧なのか、道化としての化粧なのか。判別は付かないが主人公が異様なシチュエーションであることには間違いない。カメラワークは引きと寄り、さらに動きに合わせた手元の映像が秀逸な組み合わせと編集で完成されている。僕は寺山修司のような世界にも見えた。虚の中でアメリカを渡り、主人公の空虚さがその旅を経て埋まっていく様子、それは異人が普通の人々と何気ない会話をすることで、人間に戻っていく様子でもある。

まるでDDTに入り、全国をバスで移動したり、興行への参加を繰り返すことで、名古屋での出来事から回復に向かった自分のようでもある。

■パンフレットに70年代生まれの監督はサウンドトラックの使い方が上手いと書いてあった。ケヴィン・スミストッド・フィリップスに。目指している人がそうなら、もっと音楽聞かなきゃだな。

■それにしてもシネマライズは落ち着く。明日も渋谷に行こう。

■メイキングを沢山見る。『レイチェルの結婚』のインディペンデントな作り、ほぼドキュメンタリーと変わらないその場に生の音楽を流しながら、自然かつリアルな表情を撮ろうとする試み。監督のリラックスさと、「自分はインディペンデントな制作が一番だ」という気持ちが良いなと思った。

監督失格』の特典で8mmの特集を見る。出鱈目な作品群だが、やはりそのどれもが平野さんの今を形成しているものだと思う。実験は即ち実戦でしか生まれない。私もどんどん作品を量産していくしかない。そして「映画監督」になるには映画に向き合うしかない。こんな金曜日に映画のことばかり考えているのは映画監督として名乗れるようになりたいという気持ちの確認でもあった。あと思い切って自分も日記映画としてセルフドキュメンタリーを作ってみるのも悪くない

■ストリーボードを進める。自主企画を進めないと映画監督でいれない気がしてしまうのだ。