『チェイシング・エイミー』

■朝一でアキバ。道中のメイドさんが可愛い。「萌え」という要素とかそんなの関係なしに可愛い。

■またもや日記の備忘録を一週間ほど忘れ、既に何が起こっていたか分からなくなっていました。

■BD『クラークス』監督:ケヴィン・スミス
主人公が働くコンビニで変な人がやってくる。その中で起こる珍事をチャプターごとに分けて構成したケヴィン・スミスのデビュー作だ。白黒のフィルムで撮られた映像はデビュー作らしくどこかアマチュアの匂いを感じさせるものだが、それらの要素をどうでも良いかのようにさせるサウンドトラックの使用や、珍エピソードの数々は90年代を代表するコメディとして語られることも理解出来る。

僕は未だに『ガクセイプロレスラー』という卒業制作を引きずっている。あの作品が劇場公開はされていないとは言え、自分はギャグだとしても「監督」と呼ばれるキッカケとなったデビュー作だ。スカパーで放送もされ放送料も得たし、DVD化の話も来たし、そういう意味では僕にとっての『クラークス』だ。

『クラークス』もほとんど監督の身の周りの観客を利用して作られている。改めて現代の映画監督のデビュー作は如何に「身近な題材、空間を利用し、自分にしか撮れない物語を撮るか」ということにかかっていると思う。逆説的に言えば、そうでないデビュー作を撮った監督は極めて職業監督的であり、プロの素養に備わっていると言える。(アマチュアリズムがない)

そんな今作は随所にアマチュアリズムでしか撮れない映画の要素で覆われていると思う。ケヴィン・スミスの選曲したサントラの流し方はベッタリと音楽が流れ、お世辞にも上手いタイミングで使われているとは思えないのだが、紛れもない個性として確立され、後のケヴィン・スミス作品の売りの一つになっていると思う。妙な性癖を語る彼女の存在は、僕の作品にも似ている。マニアックな性癖やそれをぼそっと言ってしまうのがインディペンデントの一つの魅力だと僕は思う。つまりキチ○イを映すことで。オフビートな世界のズレを起こすことの権利がインディーズ作品にはると思う。

クラークスはそんな要素を多分に感じさせる作品であった。

身の回りの不思議な出来事、差異は映画になる。それが拙いか拙くなかろうが、映画としての体裁を持ち提示出来た上で、ケヴィン・スミスは勝利したのだ。この作品は自分たちの日常が如何に映画的瞬間で満ちているかを教えてくれるものだ。映画監督はそれをセンスで繋いでいかなくてはいけない。

結局のところ僕はマイノリティから映画を作ることしかチャンスもないし、キッカケを作れないんだなと思った。それ以外の物語を作るのは危険だ。

■BD『チェイシング・エイミー』監督:ケヴィン・スミス
最高。心の一本になった。『アニー・ホール』『ベルフラワー』『チェイシング・エイミー』は監督をフッた女優が出てくる3部作だとTwitterで見つけ思わず気になって見た。本作はケヴィン・スミスのデビュー作でもパートの一つとして取り上げられた「変わった性癖を持った人」にまつわる話を更に拡大解釈したもので、ケヴィン・スミス自身の経験が多分に影響されると思われる。主人公は漫画家で、相棒とコンビで漫画家をやっている。相棒との二人三脚はバディ・ムービーとして、コンビとして見ていて微笑ましいバランスだ。しかしこれを脅かす存在は「恋愛」だ。恋愛が始まってしまう事で、友人関係はもつれることがある。それには宣材的なホモソーシャルなラブがあるからだ。そんな意識をケヴィン・スミスは丁寧に構成していく。

ベン・アフレックの告白シーン、ジョーイ・ローレン・アダムスの想いを告げるシーンは本当に名シーンだ。これは劇映画としての虚の部分を明らかに越えている。正真正銘の叫びだ。カメラはそれを変に編集することなく、実直に映し出している。要は編集でキメるとこと、その場面で起こることをそのまま信じることのバランスなのだと改めて痛感する。

卒制のラストは主人公の告白で終えたいなあ

古武さんのVTRがラストで対戦相手同士の告白で終わることが多いのも、そうだと思った。終盤はカットせずに素材と被写体を信じてやる事が大事なんだね。