■母が亡くなって今日でちょうど六年になった。朝少し時間があったので、海に向かって散歩をした。この道のりは母が残した写真によって強く記憶に残っている。いつも夏休みになっては母と二人で田舎に帰ってこの道を海に向かって歩いていた。その時、この狭い道に映った僕と母の写真が残っている。この道を歩き、海を眺めて強烈に記憶がフラッシュバックされた。いつも仕事で忙しかった父を残して、一人っ子の僕はいつも母と一緒に旅をしていたように思う。その都度この道を一緒に歩いていた。砂まみれになって、日焼けをして、クラゲに刺されて泣いたりしていた。この通りで母が残した写真は構図がどれも完璧で、とても良い写真だったと思う。別にそれは多くの人が見るような芸術作品でも何でもないけど、僕の心に焼き付く大事な作品になっていると今でも思う。

母は僕に「素敵な大人になりなさい」と言い残した。癌になっていると分かって数ヶ月。何も親孝行も出来ずに、進路も決まらない予備校生だった僕はふと母に「どんな人間になって欲しいか?」と聞いた。その時言った言葉が「何をしても良いけど、素敵な大人になって欲しい」と答えた。僕はそれが強烈に記憶に残っていて、それがどういう意味なのかを考える事が多くなった。

母から習い事を薦められたことは多かった。しかしまともに続いたのは水泳くらいで、英会話もギターも大して続かなかった。どうして続かなかったのだろうと考えてみても、母の期待に応えようという気概も何もなく、ただ感心がもてずにその時間の意味を探求出来ずにいただけだった。僕は限りある時間を限りあるように勘違いしていて、その重要な時間を見殺しにしていたような気がする。今、考えると母の期待に応えられたことなんか何もない。

そんな自分が美大に行きたいと言い出したのは高校3年生だった。普通の大学に行くことに意味が見いだせなかった自分は何となくグラフィックデザインが面白そうだからという理由で、志望大学を変更した。実際のところ絵を描くという才能は全くなくて、案の定そこから鳴かず飛ばずの予備校生活が始まっていく。現役生のころ、多摩美グラフィックデザインを受けた日。全く鉛筆デッサンが描けずにとてつもなく悔しい思いをして家に帰ってきたことがあった。現実は甘くない。自分が世の中に対してどれだけナメていたのか、どれだけ勉強をしていなかったか思い知らされた日だった。帰りに玄関で母が出迎えてくれた。「何も出来なかった」と僕は言い、そこで泣き崩れたが、母は優しく抱きしめてくれた。「また来年頑張ろう」そう言って怒ったりはしなかった。母は僕をどう見ていたのだろう。これだけ勉強が出来なくて、成績はほとんどの教科が普通で、ただのボンクラで、女の子にもモテなくて。一体どういう感じで見てたのだろう。今、思うとそんな視点を考える意識のなさが、僕が一人っ子で甘やかされて育ってきたダメな部分の一つだと思う。

1年後、また受験に失敗した。今回は手応えがあったが、ムサビの補欠が回ってこなかった。父親からは専門学校にしろと、美大受験を諦めるよう説得を受けた。そんなとき、また手を差し伸べてくれたのは母だった。50万円のヘソクリがあるから、これでもう一度美大を目指して良いと言われた。母の癌が発覚したのはそれから4ヶ月後くらいの7月だったと記憶している。

■高速バスで重たい荷物を持って帰京。バスの中でlifeを聞く。マネタイズの話、この時代に儲けを生むことの難しさ