自然学校/『容疑者、ホアキン・フェニックス』

■自然学校プロレス撮影。自然のロケーション。ウィンターズ・ボーンみたいな風景。都市と正反対の場所でここではたぶん自分は生きていけなさそうだとか、そんな思考になる。撮影は雷雨も降ったりだが、Twitterで消費されるその情報にげんなり。ここでもTwitterで情報発信したら偉いという空気感が如実に出ていて気持ち悪くなる。

シネマライズ『容疑者、ホアキン・フェニックス』監督:ケイシー・アフレック
ホアキン・フェニックスが突如俳優を引退し、ラッパーに転身するという前代未聞のドッキリが自分でも想像だにしなかったとんでもない展開へと流れ込んでいくドキュメンタリー。俳優がある特定の場所において、異質な選択や存在になり、その場所に生じる違和感で笑いに変えていく。それこそがサシャ・バロン・コーエンの手法であった。彼の場合には意図的にキャラクターを作り出し、そのキャラクターを演じきることで、そのフェイクドキュメンタリーとしてのギリギリのラインを保ち、かつ笑いに転化出来たのだが、本作はホアキン・フェニックスが自らの実名で容姿をまるっきり変え、自らが笑い者になっていく様を提示していく。つまりキャラクターではなく、その実体がより強い輪郭を持ってメディアに登場してくる。マイケル・ジャクソンがその整形手術によるあからさまな違和感を持ってメディアに登場し、ワイドショーを騒がせたのだが、そんな状況をホアキンは自らを後ろ盾にし、パフォーマンスにしようとしなのか。どちらにせよ今作では何が本当で何が虚構かを判定するのは難しいくらいに、生々しいフィルムの断片によって構成されている。フェイクであるならば、どうしたって嘘っぽいカット、台詞など容易に判定出来る時代にも関わらず、ここに映っているフィルムの質感は極めてノンフィクションに近いものである。恐らくフェイクで作り込んだシーケンスと、本当に起こったドキュメンタリーの部分とが良い案配でごっちゃになっていると予想出来る(確信は出来ないけど)だから今作のフィクションラインはもの凄く高い。ヤケになってデリヘルを呼んだり、騒ぎ過ぎてトイレでゲロを吐いたり、それこそどうなんだろうというシーンは、「ハリウッドスターでさえもがそんな瞬間の中に生きているのだ」というホアキンの主張のように思えてくる。このリアリティある画面は松江監督の『童貞をプロデュース。』にも近い感覚で、ベクトルがまさにそんな方向に振り切っているようだった。それを自らの身体を使っているというのがポイントなのだが。前半部分ではそのエンジンのかかりの遅さと、各カットの不可解さにある種の難解な映画を見せられているかのように陥る。構造がかなりの多層構造を持ち始めるため、デヴィッド・リンチの作品に見られる感覚と体験を強いられるのである。ホアキン自体が一体何者なのか?ラッパーなのか、俳優なのか?監督との関係性はどうなっているのか?これはフェイクで撮られたのか、偶然撮られたのか、判定のラインが難しくなってくる。

またホアキンが放つラップのシーンなどは昨年公開されたバンクシーの映画を見ているようだった。つまり