『アリラン』【北海道自転車三部作】

イメージフォーラムアリラン』監督:キム・ギドグ
セルフ・ドキュメンタリーの概念は自分というフィルターを通して見た主観であったり、テーマであったり、被写体であって、何も全ての作品で自画撮りを行っているわけではなく、作り方や思想にそのセルフである理由が明確にあれば、それが成立する。だから自分が必ずしも映っている必要性はなく、そのキャメラの目だったり、何かの要素であれば良い。だが、今作は想像以上に自画撮りの要素で構成され、キム・ギドグ以外の登場人物は猫や他の動物を除けばゼロだった。そういう意味では本当の意味でセルフという領域の中で作られた作品であるし、キム・ギドグの内面そのもののみで構成された映画と言えるだろう。キム・ギドグ本人が登場し、自分の影を登場させ対話をさせるシーンなど、厳密にはたった一人という登場人物なのだが、もう一人の自分をしっかりキャラクターとして浮かび上がらせ、ボケと突っ込みを映画的編集を使い、ファンタジーを作り上げていく。分かりやすく書くと武藤敬司グレート・ムタが対話しているような感じ。ファイトクラブタイラー・ダーデンが主人公が作り出したキャラクターだというのも、自己がもう一人の自分を願望や、何かしらの想いで作り上げているという点でも似ている。

とにかく驚かされるのは、映画としてのテンポが実に軽快であったことだ。冒頭のシーケンスでは、カット割りが実に的確に行われており、通常の劇映画に遜色劣らぬルックで成立している点にある。ドアを空け、キム・ギドグが画面に姿を現す、コーヒーを注ぐ、何かを食べるといった一つ一つの行為にしっかりとしたアングル、フォーカス、ショットが存在し、間違いなくそれは「編集」された映画であることが提示される。従来のセルフドキュメンタリーではここまで周到に練られたカット割りはされておらず、膨大なイメージを構成、編集することで映画としての輪郭を浮き上がらせてきたが、本作はほとんど小屋の中で過ごすギドグが、その小屋を映画のセットとして把握し、劇映画とほぼ同じスタンスで撮影を行っているのだ。ここまで見事なカット割りとテンポを見せられると、もう劇映画の監督にはドキュメンタリー監督は勝てないのではないかと思ってしまうほどに、どのショットも魅力的なのだ。自画撮りでここまで映画的スペクタルを呼び起こすキム・ギドグの方法には多くの発見に満ちており、とんでもないエポックメイキングを見せられている気持ちになる。

マーク穸で撮影していることはシーンの中で語られているが、ここまで鮮明なイメージを本当にたった一人の映画監督が実現出来たということなのだから、この機材は本当に恐るべき革命の道具なのだということも改めて分かった。奇しくもモンテ・ヘルマンの最新作もこのマーク穸で撮られた必然性が映画の中にも存在し、デジタルとアナログの違いにも言及しながらも、共に二人の映画監督が自分のイメージを具現化するために、この機材を褒めていることは偶然だとしても、興味深い事実のように思える。

とにかく適切なカット割りが生み出す「虚」が間違いなく映画特有の快感を呼び起こすのだということをこのシンプルな映画が証明しているようだ。

語られる内容は自問自答で、何故自分は映画が作られなくなったのか?という問いから発端は始まっている。弟子が自分から離れたり、俳優が撮影で死にかけたり、そんな思いをカメラの前に吐露していく中で、それらの事実を元に自画撮りをしていけば退屈しない映画が出来るという判断に至ったという。

人は吐き出し口を求めている。社会にいれば人は何らかしらの理不尽な圧迫を呑まずにはいられなく、その吐き出し口を週末の飲み会や何かによって発散するしかない。大半の人がそうする中で、キム・ギドグは自分自身に語りかけていった。やがてそれはもう一人のキャラクターを演じることで、それすらも映画として回収する。つまるところ映画創りの問いは映画を作る事でしか解決出来ないという映画作家の性のようなものを見せられているかのようでもある。

映画は結末に向かっていくにつれて、より映画らしくなる。ギドグが手製の銃を作り、それを持って車で出かけ、色んなところでその拳銃を放つ。放っているところは見せずに、SEで銃声を聞かせる。そして4発目は自分に目がけてうつ。拳銃というモチーフが映画そのものであるかのように、それによって過去の自分と決別するかのごとく、自分自身にうつ。このシーンはいくらでも解釈が可能のように思えるが、自分一人でそのシーンを作り上げ、映画的なシーケンスとしか言いようがない場面を作る。

監督失格』 × ポレポレ東中野企画【性と死と旅】【北海道自転車三部作】

■『由美香』監督:平野勝之
DVDで何度も見返しているはずなのに、スクリーンで見るとまた別の感動が押し寄せてくる。林由美香という唯一無二の存在、それそのものがこの映画の物語を

■『流れ者図鑑』監督:平野勝之
ビデオで観賞して以来2度目の観賞だったが、今の自分から見ると多くの点で身につまされる箇所があった。2作目は、前作の流れを引き継いでいるため、冒頭の説明はかなり省略されていた。由美香との恋愛関係を終えた平野さんが松梨智子を引き連れ、自転車旅行に出かける。目的は各地の流れ者に松梨とセックスをさせ、女流監督として育てることにあった。平野さんは前作の「恋人」と異なる関係性を言葉使いや態度そのものに顕著に示す。あくまで松梨は「弟子」であり、ディレクターとADの関係とほとんど差異がない。

また松梨という女性も実に演劇畑出身の女性に見られる自己顕示欲と、演劇の間合いを現実世界に持ち込む面倒くさいタイプの女性のように思える。こんな感じの性格の女性と付き合ったことがあるけど、全く合わなかったことがあった。

そんな感じで、どこか性格ブスの雰囲気漂う松梨との関係性は必然的に破綻へと向かっていくのだが、平野の苛立ちも映像作家独特の苛立ちで、やや暴力的に振る舞いだす。こんなシーンを見て思い出すのが、自分と師匠との関係で、自分も師匠を何度も苛立たせ、また師匠に対してその独特の言語感覚を汲み取れず「バカ」と呼ばれる事も多々ある。映像を通じての師弟関係とはその目指す映像イメージとのギャップから生じるのだなと改めて思う。平野が松梨に対してやや暴力的になるのは、そのイメージを目指す監督としての姿勢が見えず、かつ自分がコントロール出来ないその松梨の性格によるもののように思える。

自分のツラを見せろ、ハメ撮り監督としてダメだ、撮りながらちゃんと自分で作っていけ、そんな指示は弟子を育てるAV監督としての「プロ」としての一面だ。

平野さんは前作である種の仕事なんてクソくらえという精神で半ばやけくその精神で、仕事とは違う極私的な要素を見せていた。が、今作ではあくまで「仕事」として取り組む平野さんの一面がより強い。途中のシーンでは彼女に情がうつってきたと語りだす場面もあるが、終始一貫して仕事として取り組んでいる本作品の方向性が見えないまま、その苛立ち

■『白 THE WHITE』 監督:平野勝之  
35mm上映。もうオールナイトで疲れきっているのに、映画もまた平野さんが己の肉体をここまで酷使するかという状態にまで追い込んでいく。もう何か観客の心を情動させようという意図を感じさせないシーンでさえ、何故か涙が出てきてしまう。どうしてこんなことをする必要があるのか?何故ここまで孤独な映画作りをするのか、平野さんへの愛おしさが三部作のラストで見ている側にも結実させてしまう何かがある。どうしてだろうと思うと全てのトーンがこれまでの2作と明らかに違うもの悲しさで満ちている。不倫相手として登場した由美香も松梨もいない。そして妻の登場回数も最も多い。今までで一番平野さんが浮ついていないというか、生活感のようなものが見えてしまう。

旅を始めるや否やすぐに平野は盲腸にかかる。盲腸の面倒を見るのは平野さんの妻。これまで「恋する相手」として登場していた由美香や、「弟子」としての要素が強い松梨とは全く異なる関係性。それは明らかに互いの生活を理解しきっている「妻」だ。これまでの2作のような瑞々しさはまるでない。だがそれ故にその2作を経てきた平野勝之の輪郭が一番地に足が付いて見える。だから生活感丸出しのその男、病院のベッドに寝ている平野さんはある種の抜け殻のようでもあるし、そして最後の意地を見せようとしているかでもある。

平野さんがテントの中にいるとき、一人芝居のような仕草を始める。これまで話し相手になっていたパートナー、恋愛映画として成立するためのパートナーの存在がいてその関係性そのものが映画として見やすいものにしていたが、本作はその要素がほとんどなく、特に終盤にかけてはひたすら自然の猛威と闘う平野勝之ただ一人の奮闘が描かれる。道中でである動物たちに話しかけ、これまで出会った犬たちに思いを馳せる。人間はここまで寂しさに耐えられないのか。そうなってしまった以上はただ自分の中で虚の話し相手を作るしかないのか。その一抹の寂しさが、奇麗な風景のショットと一人佇む平野自身の姿がただただ神がかって美しい。終盤は旗を持って、礼文島へ向かう。画面はどんどん氷ついた凍てつく吹雪に見舞われ、吹雪いている音がひたすら険しさの現実を伝えるサウンドトラックとして映画を形作っていく。

思いも寄らぬ感動とはこのことで、極限状態に追い込まれた人間の執念とは物語さえも必要とせずに、その無垢な行動だけが人の心を動かすことが出来るのか。(『エッセンシャル・キリング』も同様の感動を覚え、『名前のない男』にもそれを感じることが出来た)

それでも人間の性なのか、平野さんがヤりたいと口走ったり、ホテルの受付嬢に恋をしたり、そんな平野さんらしい可愛さがドキュメンタリー監督としてのポップさ、可愛さをアイコンとしての存在にまで高めていると思った。このホテルの受付嬢はこれまでの3作の女性の中で一番可愛いと思う。