『ゼロ年代+の映画』『爆心地の芸術』

■散髪。もう長い髪を維持するのは無理だ。だらしなく見えて損をする。

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■『ゼロ年代+の映画』『爆心地の芸術』
これは非常に重要なテーマ、及び共通点を発見した。恐らく長らく僕が考えていた事が、具体的に二つの書物によって比較考察され、まさに今望むべきテーマとして今目の前に浮かび上がってきた。

どちらの書物にも共通しているワードが「ガチ」である。ガチとは相撲用語のガチンコを称し真剣勝負、リアルファイトといった用語が付随していく。このガチという概念の裏側にあるものが同時に「フィクション」「フェイク」といった言葉で、この言葉も同時に二つの書物の中に共通して姿を現す。

前者は映画にまつわる話で、後者はアートに関する話であるが、どちらも「リアル」とは何か?というテーマが見え隠れしている。一体何故「リアル」という言葉が近年において先行してきたのか?

前者の『ゼロ年代+の映画』では映画的なるイメージが日常的に享受出来る時代になったと書かれている。ケータイ、ゲーム、テレビ、インターネットなどメディアが多岐に渡る中で「映像」の洪水のように我々は映像を見ない日がないような生活を送っている。そのイメージの洪水の中で映画は「3D映画」なるジャンルを生み出した。立体視するための眼鏡をかけ、目の前に飛び出してくるかのような視覚伝達装置が発動され、従来の映画体験とは異なる体験を強いられる。その一方でビデオカメラの安価、及びラップトップで映像編集が可能になったことで登場したドキュメンタリーからフェイクドキュメンタリーのブームである。一見どちらとも正反対のジャンルかのように見せておきながら、「リアル」という概念を目指すというベクトルは同じではないか?という議論がなされている。無論、私の環境下で作れるのは後者の方である。

一方『爆心地の芸術』では村上隆がプロレスの概念を引用することで、アート界の活動を世界的なものに出来たのではないかという考察がなされている。ここで行われた考察のうちに多く引用されたプロレスラーは「アントニオ猪木」と「大仁田厚」である。この二人のレスラーの活動そのものが、村上のアート活動と構造に多くの点で当てはまるというのだ。村上はまず大仁田の存在の注目した。一見全く強そうに見えない大仁田が「おい!おい!」とまくしたてる事で「プロレス」の何たるかを獲得しているというのだ。実際のところ大仁田のリング上のパフォーマンスは一レスラーとして高いものではないだろう。しかし大仁田が発信するのはそのリング内外を問わず、一種のマゾヒズムに至るまでの自己陶酔と、エネルギーにより、インディーズ団体に過ぎなかったFMWを業界内から打ち破り、そのカルチャーを外に向けて発信出来てしまった事に他ならない。村上がその方法論を意図的にアートに置き換えて行った事は意図的だろう。アーティストとして優れた作品を残すことよりも、まずそのキュレーション、マーケットの部分を徹底させ言わば電流爆破に当たる装置を作る事に注目したと言って良い。ここに村上の賢さ、そして全体を司るプロモーター、プロデューサーとしての嗅覚の鋭さがある。美大に行って感じるのはこの全体感によって内から外を破る力を持った者の不在である。当たり前だが美大生は作品を創作しに大学に入学しているので、その感覚を持ち合わせている必要性はないにはないのだが、村上隆をこういった面で評価しようという授業もないのが現状なのだ。

幾度となく繰り返される言葉「ガチ」「リアル」とは一体何なのか。そしてリアルかどうかという概念は果たして「良い創作物」なのかということがそもそもの疑問として浮かび上がってくるのであります。

ここで『黒澤清、21世紀の映画を語る』を取り出し、黒澤はそのラインの映画とは何なのかを考えてみる。デ・パルマの『リダクテッド』はまさにそこで議論たる映画である。

手振れの映像(ドキュメンタリータッチ)、監視カメラの映像、youtubeの映像等の現代的なメディアを使い文字通り生活の中に満ち溢れている。確かに現実感溢れる「リアル」に相当する映像だが、そこにはそのように演出しようとする作為すなわち「フェイク」「フィクション」といった要素が多分に見え隠れしだした。何故リアルに映し出そうとした映像はリアルたりえず「フェイク」が見えるのか。それこそがリアル⇆フェイクの半永久的な問いである。何故だろうか。そして何故に「リアル」という志向がこの10年で取り沙汰されたのか。個人的に検証してみたい。

メディアの中にあるリアルとは何か。これまで映像とは誰もが持ち得る手段ではなかった。つまりテレビや映画という誰もが扱えるわけではない限定的なメディアであり、操作、編集といった行為を扱うことは出来なかった。例外的に写真ということもあるがここでは置いておこう。そんなイメージがよりドメスティックなものとしてこの10年のメディアの変遷があるということだ。誰しもがケータイを持ち、そしてそのケータイに動画撮影機能を持った。10年前に若者の間で起こった「プリクラ」と呼ばれる装置も各人がデジタルカメラを持ち、ケータイの撮影機能を利用することで、時代変革を感じる事なく人々はそれらに順応に反応していった。さらにSNS、インターネットでそれらを「共有」することで、一人が所有するわけでなく、多くの人がそれを閲覧出来るようになっていったのである。ここで映画は変容した。DVカメラの発達により、誰もが映画らしいものを撮れるようになった。映画らしいというのはイメージのことであって、それが「映画」として機能しているものなのかどうかは、その作品を見る事でしか判断は付かない。が、少なくともここ10年でその流れは間違いなく作品の質は変わっていった。カメラは三脚を立てない手振れの映像こそ、誰もが所有しうる映像に近いものとして捉えられそれは「ドキュメンタリータッチ」といった用語で文字とおり流行するに至ったのである。

「まるでドキュメンタリーのようだ」という言い回しが非常に多くなった。そのドキュメンタリーは果たして観客のニーズとしてあるのだろうか?そしてそこまでドキュメンタリーは面白いのか?このドキュメンタリーのブームは何なのか?

そのような問いの答えは『リダクテッド』が面白くなかったことに隠されている。何故リダクテッドは面白くなかったのか?

まず第1に戦争映画として面白いものではなかった。戦争下に置かれた人物描写も、そしてあえて退屈に見せようとする演出も(兵士が感じている時間を観客に体感させているのでは?)との見方もある。

リアルに志向していった結果、逆説的に「嘘」が見えてしまい、結果として映画としても面白いものではなくなる。どうやら映画とはそのような概念と面白さとは別な話になってしまうようだ。

映画に関して言えば「ガチ」「リアル」を意図的に演出しようとすればするほどに、そこに作為が見えてしまう。ではどうすれば良いのか。むしろ「フェイク」と向き合った方が良い映画が撮れるのではないか。ことさら映画における「ガチ」感とは、どうも意図的に生んだ事柄ではないようだ、むしろやはり撮影という行為や、何かが破綻してしまった瞬間、フレームの外部にあるもの、そして俳優たちがフェイクの軸の中に生まれた何か「リアル」のような感情にこそそれは宿るのではないだろうか。

それはフェイバリットな映画『レスラー』を例にとれば分かりやすい。あの作品が目指したリアルとは決してドキュメンタリータッチに描かれた撮影方法ではないように思える。むしろミッキー・ロークという俳優がまさにその「フェイク」上の軸にある架空のキャラクター、ランディのそれと重なって見える現象によって、それがランディのものとも、ミッキーロークのものとも区別が付かなくなるというものであった。同時にそのテーマとされているものはプロレスというまさに、題材そのものがおよそ「フェイク」と「リアル」の境界線上を彷徨うジャンルであり、極端にその両極を作品内で見せる事で観客をその座標軸に彷徨わせることだった。

村上がプロレスを引き合いに出したのも、言わばアートにその概念を積極的に採用していったということだろう。で、あるが故に村上を「インチキ」だという側面で批評するものも少ない。だが、この座標軸で考えれば「爆心地の芸術」にあるようにやはり「異種格闘技戦」のようば場を意図的に作り出すことに成功したと言って良いだろう。

ここで重要なのはこの「異種格闘技戦」という概念に他ならない。全く違うジャンルのものが交配するという意味だけでなく、紛れもなく「フェイク」と「リアル」を同一線上に並べる事なのだ。意図的でないものが生まれるからこそ面白い。そんなことは当たり前だが、それを状況設定だけで「リアル」ですよと提示することはリダクテッドを見るに困難なのだろう。

だが、面白いのは黒澤清がなお21世紀の映画でないかと睨む作品群である。ここで「デス・プルーフ』を取り上げてみる。この作品の意図的なフェイクの要素はかつてのグラインドハウス映画を作り出すために、フィルムに傷を入れる、リールを飛ばす、フェイク予告編を差し込むといった演出を作り込むことにあった。もちろんそれらの要素は限りなく「嘘」に近いもので、それらの要素を取り出してみてもそれが「面白い」要素になるかどうかは全くの別問題であった。だが結果としてとんでもなく面白い映画がそこに生まれた。一体何故だろうか。そして私自身が大学2年生の時点でTOHOシネマズ南大沢に行き、デス・プルーフを見て初めてプロレスを見た衝撃と同等の何かを感じた。それは一体何なのか。今、私が創作をする上で次のステップに行くためには、まさにこの感覚や概念が何なのかを今、ハッキリと整理することに他ならない。これこそが自分が追い求めている謎の正体であった。結果的に言えば大学4年間でその正体を掴むことは出来なかったということである。しかしその後の2年を通して、今まさにその正体を把握する絶好のタイミングに差し掛かっているのである。

再び『黒澤清、21世紀の映画を語る』に戻る。この著書は黒澤監督が映画館や大学で講演という形でお話しした事を編集、構成されたものになっている。そのどれもは基本的には答えのでない、でも長年の経験で感じた事を喋っている。なので既に述べた『リダクテッド』もあくまで黒澤監督の思った事であるが、確実に長年の経験に裏付けられた「映画」たるものの正体に近いものであることに間違いない。その中で、映画とアニメーションの違いについて書かれている。最大の違いは映画は目の前に起こっている事を四角い画面に「切り取る」ことであるというのだ。そもそもアニメーションとの概念の違いはこの切り取るという概念がアニメーションには存在しない。アニメーションはそこにある紙や、画面フォーマットに向かって描画していくことであり、カメラでそこにあった現実を切りとるという作業ではないという。

これに関して僕が経験したある不思議な感覚について言及してみたい。大学3年生のころに私は原田大三郎先生のクラスに1年間所属することにした。これは僕個人の希望で選んだクラス選択でした。しかしながらこのクラス選択は失敗だったということに段々と気付いていくわけです。まず実写映像を志す学生がクラスの中で極めて少なかった。つまり画面を「切り取る」表現をするものがいなかったということである。ほとんどの人間がアニメーション的なるものを志すクラスではそもそも画面に対する認識が極めて違うものでした。もっと些細なことを言えば、アニメーションを表現にしている学生はどこか学生時代を謳歌してやろうという気概が見えないというか、どこかフワっとした質感を持った学生が多かった気がした。生々しい質感を持った、ほとばしるものを身体から放つ人がいなかったことに、何故だか私はそこに居心地の悪さのようなものを覚えたのです。これはそれらの学生を批判しているのではんくて、そもそも映像と呼ばれるものに対する認識や、概念が違うだけで、およそその「監督」と呼ばれる人間の気質は実写とアニメーションで根本的に違うものになるというのが、個人的な感想でした。

大学3年の時期には全く違うゼミを受講しました。これは映像論ゼミというもので、学科学年を問わず、年間で映像作品を一本完成させることを目標としたゼミでした。先生は写真評論家の先生で、まあこれといって技術指導などは何もなかった。ちなみにこのゼミに参加している女の子たちがことごとく可愛かった。特に一つ学年の下の女の子たちは異常に可愛かった。そしてその周りにいる男の子グループも確かに異常にかっこ良かったことを覚えている。

ここに前川さんという油画科の女性がいました。彼女は自分を出演者にして、女の子とは思えない自虐的な映像作品を作っていました。4コマ漫画のようなシュールさと破壊力がそのどれも短い作品にはあった。彼女自身が出演者として、監督として総合的な立場でいるということも含めてですが、前川さんという存在そのものの身体性というかオーラは明らかに他の人のそれとは違いました。

何が言いたいかというと、やはり実写の映画監督とはそのような身体性を持ち合わせていなくてはいけないのだと、ある程度実生活に対して積極的に自らの身体を強く関わらせていく、そういうことがおそらく実写の映画監督には極めて必要なのだと思いました。別にアニメーションを製作する人になくても良いということではなくてですが、特に実社会を四角い画面で切り取るためには、実社会にしっかり足を付けて日々動き回るような活力が絶対的に必要だと思われるのです。私がこの映像論ゼミの方が居心地が良かったのは、前川さんのような人や、それこそ地に足が付いていて活力溢れモテそうで、可愛い女の子がいたということです。これはつまりモテそうで、可愛いというのはそういう側面も捨てないということ、そういう部分の人間性を放棄しないことにあるのではないかと、いつ自分が四角い画面で切り取られても良いように、常に自己演出が出来るかという事を意味しているのではないかというのが、私の何となくの結論なのです。どうも原田クラスにはその身体性という部分で明らかに私は浮いていました。学生プロレスをやっている自分が、そのような身体性を活かすにはそのクラスのメンバーでは相殺されてしまう。あくまでそのような身体性に対して嗅覚を感じ取れるかというのが強い何かのような気がします。だから根本的にアニメーションを志してきた人とはあまり意見が合わなかった(笑)。きっとアニメ好きだった人からしてみても僕という存在はうっとおしかったんだろうなと思います。

■追記:気持ち悪いんだけど、分かる。実写とアニメーションの違いには散々悩まされてきたので。ただ一方で、ドキュメンタリーの人間の持つ面白さに惹かれていたのも事実なのだろう。