『宇宙人ポール』

■朝、会見の撮影。女子選手。私は不審者のような出で立ち。編集して早々と街に消える。

■シネクイント渋谷『宇宙人ポール』監督: グレッグ・モットーラ
監督は『アドベンチャーランドにようこそ』の監督。この『アドベンチャーランドにようこそ』はDVDスルー作品ながら、監督が如何に「青春の甘酸っぱさ」を映像化することに長けているか、「分かっているツボ」を堅実な演出で押さえられる人であるということを証明する通行手形のようなものだった。まさにこのポールもそれを前提に作られていることは間違いない。サイモン&ニックのコンビはのっけからオタク気質全快の「いつもの」状態で登場してくる。コミコンに登場し、どのような作品が彼らという人間を形成しているか、テンポの良いギャグで構成していくのが見事だ。登場人物の造形説明をギャグと掛け合いで説明出来てしまう事がサイモン&ニックの最大の強みではないだろうか。元ネタを知らない人がどう思うのかは、ちょっと想像も出来ない状態に自分がなってしまっているが、それでもオタク気質でいることが、「今」を映し出す一つの要素になり得ること、SF作品の引用ということ自体が映画のモティーフになりうるほどに豊かなカルチャーとして存在している。

セス・ローゲンが声を担当しているポールは何とも可愛らしいキャラクターだ。ハッパを吸い、汚い言葉を吐きながらも友情を築くことにはことごとく熱い。『50/50』に出てきたセス・ローゲンそのものだ。これはもはや「セス・ローゲン」のようなキャラクターという一つの形式さえ生まれたと言っていいのではないか。彼のような友人は、時に迷惑な思いもさせられるも、何より等身大の言葉とジョークと、ユーモアとバカな時間を過ごす事で、その時間が限りなく愛おしく思えてくる。そしてそれが限りあるものだと分かったとき、その別れはより感動的なものになる。コメディ映画の構造に、しっかり胸を熱くさせる要素を付け加えるのは「ボンクラ」であることが如何に、愛おしい時間であった事を振り返るときだ。本作はその押さえが終盤までばっちり押さえられており、ロードムービーとして大型のバンで移動するその旅路が「楽しかったな」というラストに繋がる。(これはジョジョ第3部のエジプト編でもほぼ同じ構造)

と、同時に本作の魅力はキリスト教原理主義者を登場させたことにある。まったくもって頭がカチカチな福音派の人物たちにとって、まさに宇宙人という創造物は究極的に異物である。ポールという異物が彼らに振り回されながらも、彼らを救済していく構造には本当に涙が出てくる。これはしっかりアメリカの闇を客観視しながらも、それをしっかりジョークとギャグで笑ってしまえる海外コメディ最大の強みなのだ。(近年のテレビ局出資日本映画はそれが最大に欠けている)

ドジでマヌケな警察二人組というのも、一つのテンプレなのか(タンタンの冒険やアザーガイズでもおなじみ)彼らが実に良い味を出しながらスパイスになる。追っ手と追われる側が巧妙に逆転していくラスト。そして何より「未知との遭遇」を最大にオマージュしたスピルバーグの出演や、ラストの宇宙船を見つめるショットは根源的なSF映画というワクワクなのだろう。傑作!

■DVD『カメレオンマン』監督:ウディ・アレン
ウディ・アレンのフェイクドキュメンタリー。膨大なアーカイブフィルムを使用したかのような構成・編集が実に巧みだ。主人公はどこにでも同化してしまうカメレオン男のゼリグ。ゼリグが各所にとけ込んでいる合成写真??を巧みに配置させ、そこに厚みと説得力を持たせるインタビューと記事の配列で、ウソ記事に「真実のよな風味」を持たせている。やっていることは東スポなのだけど、東スポがフェイクドキュとしてしっかり成り立たせているのは、それが「新聞」だからにほかならない。新聞であるか、写真があって、記事がある。本作はまさに東スポの映画化とも言える。しかし今作がラストに向かってラブストーリーへと変容していくのが、ウディ・アレンの実力だろう。自分を研究していく博士に裏をかかれることで、自分の本心を告げる。告げた上でさらに、多重結婚が判明していく展開。嘘をつくこと、嘘の記事をさらに作り続ける事、フィクションだらけの構成から、一転してウディの価値観がしっかり提示されるラストは嘘だけに終わらせない、「嘘から出たまこと」の普遍的なテーマと真実とメッセージというカタルシスなのだ。

■BD『東京物語』監督:小津安二郎
何故にここまで語り継がれるのか。それは日本の本質的な「良さ」が詰まっているから。家族、やさしさ、お酒、都会、地方、そんな日本人が暮らしていく心地よさとちょうど良さというのは、海外の人間からすれば実に羨ましい事なのかもしれない。この作品を通して見るのは誰しもが経験する出来事だろう。時代がどうあれ、家族や親戚、家という要素に大きく変動はない。その在り方や関係性が変化しても、その決定的な関係性や想いは変容しようがないと思う。僕がPFFの『家族X』という作品に腹が立ったのは一方的に家族の空虚化(会話をしない、どこか冷めている、満たされない妻)といった今っぽい単語が先行しているだけだったから。小津が見つめて、現代の日本人監督が見つめれないもの。