『トーキョードリフター』で気付かされる

新宿武蔵野館『ひまわり』監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
かつての映画、名作を今スクリーンで観る意味。リアルタイムで見ていない若造が、それを観る意味。それは一体何だろうか。語り継がれる映画、それは非常にベーシックな物語だからか、それとも優れた俳優たちが色褪せないからか。

初めて見たひまわり。古いとかそういうことじゃなくて、映画を観るということは、その一瞬とその光景に会いに行くことなのかもしれないと思ったのです。どうしようもなく愛し合っても裂かれてしまう国に生まれた宿命。戦争が与えた背景は極私的な人間の営みを侵攻する。古き関係を捨て、新しき関係を築くことは簡単なのに、どちらが大切かなんてすぐに判断なんて出来ない。人間だから、正直に行動なんて出来やしない。電車越しに見つめ合う視点のショットの交錯。一体こんなシーンどれだけパクられてきたんだろう。どれだけ『ひまわり』に似せて作ったドラマがたくさんあったんだろう。けどそのどれもが、『ひまわり』に勝ることが出来ないのは、時代も人間も含めて映画が「その時にしか撮れないものを適切に撮った」からなんだと思った。

■記者会見撮影。須山健さん

ユーロスペース『トーキョードリフター』監督:松江哲明
定まらないフォーカスと、かなり荒い画質(VHSに近い質感とフォント)を使用し、ビデオアートのように起承転結のない作りを意識的に構成しているであろうドキュメンタリー。良いとか悪いとかという判断を映画に対して求めてしまうのは何故だろうか?良い作品と、良くない作品の違いとは何だろうか。それは単に脚本の詰めや、演出がしっかりなされることでそれは良いものになるのだろうか?表現とはそういうものではなくてはいけないのか?『トーキョードリフター』を観るとそんな判断基準を揺るがされてしまう気持ちになる。映像は不明瞭だし、構成らしい構成はないに等しい。だけど僕らはそんな映画を映画史のなかでいくつも見てきた。今回の作品を見て思うのはハーモニー・コリンのような、映像美から脱するコンセプトや、直感的に描く方法論に似ている。似ているというのは結果であって、本人がそう作ったは分からない。

僕は気がつくとただただ驚かされた。松江さんの視点や視座がまったぶれていないから。賛否両論のものを作るということに対して怖がっていない。だからこういう視点の作品が提示出来る。「僕はこういう風に震災を捉えて、東京を撮るべきだと思った」という視座がぶれていない。そして自分の方法論でもあるドキュメンタリーというスタイルからも逃げていない。記録すると思ったところから、劇場公開をするまでのフットワークがとにかく軽い。そして肝が据わっていると思った。『ライブテープ』とどう違うかということはもうどうでも良くて、ドキュメンタリー作家とはかくもこのように自分の視点を見せつけるべきなのだと感嘆してしまった。分かりやすいとか、誰しもが楽しめるエンターテイメントとして提供し、それで自分が評価を受けたと思うのは自分の「視点」とは違う要素になってしまいか。

トークショーの中で、松江さんは世論が原発派と反原発派の二派に分かれて議論が進んでいくことに違和感を抱えたという。誰もがその流れのなかで、赤組か白組かのような論争に加わらなくてはいけないのか、当然そうではない人たちの視点があるはずだ。松江さんの視点はしっかり地に足を付けた状態で、自分の居場所である東京を撮ろうとした。ただし震災があって何か突き動かされて作り始めたと言っていることは間違いない。

今、思うと僕は一つの方法論についてばかりに目がいっていたのかもしれない。ナレーションを使わないとか、観察的に撮るとか、そういうのはあくまで方法であって、問題はそのテーマやモティーフについて、どう捉えたかをどう伝えるかなんだと思う。視座があって方法論がある。松江さんの嗅覚というのはこの視点がしっかりドキュメンタリー論に根付いたもので、撮影と現実を撮るということと、些細な極視点に嘘をついていない。そして最良の表現が何なのか、そしてそれが出来る仲間が誰なのかをしっかり把握しているということ。そして伝えたい事の声の大きさに適切な大小もしっかり認識している。

ブレブレの映像と映し出した東京が羨ましかった。これが自分の住んでいる等身大の街だ、これが自分の視点だと提示出来るのがドキュメンタリー作家なのだ。だから迷いのない今作と、答えのない作りに「良い映画にしたい」と応えようとする前野さんがカッコいいのは当たり前なんだろう。たぶんこの映像はサイコロジーないふりをしていて、都市にサイコロジーを宿らせた傑作なんだと思う。じゃなきゃあんなに渋谷が語りかけることもないし、東京という街を意識することもないだろう。

僕だって「今」を叫びたい。どこかに気持ちを伝えたい。この1年が何だったのか。僕が見てきた視点を伝えたい。一人で出来るのか、けどこればかりは一人でやってみたいかもしれない。
前田日明「この1年半UWFの戦いがなんであったかを確認するために新日本に来ました。」が胸に響く。

とにかく『トーキョードリフター』の素晴らしいのは、あなたの視点はどう?と問いかけてくれるところなのだ。それも不毛な論争ではなく、映像と剥き出しの音によってである。

僕が出来るのはプロレスの視座で映画を作る事だけだ。何とか生きて行けるというメッセージ。好きなことを精一杯好きと言っていいこと。底辺にはいっぱい素敵なことが待っているということ。恋愛映画でプロレスをしてやろう。