マッスルのような『CUT』

■両肩が慢性的に痛い。いよいよ職業病的なものになってきた。

■『ハンター』監督:ダニエル・ネットハイム
デフォーの深みのあるしわと、あえて無感情な様相がラストシーンへと収束するための十分なプロットになりえている点が凄いと言わざる終えない。全体的な台詞の少なさに対して全く退屈しないのは、実に丁寧に撮影、編集、音響設計が巧みに総合芸術として互いに良い要素に働き合っているか。広いワイドショットで捉えられた壮大な自然のショットを提示し、その厳しい環境を移動するデフォーの身体がそのシーケンスの編集だけで十分に伝わる。言葉を必要としない画面の説得とは状況と身体によって十分に説明がなされるのだということ。そこからそこに住むある一家との交友を経て主人公のエモーションが変化するという王道の話ながらも、デフォーならではの男気のような説得力が心地いい。

私はどうも都会に住むものが何らかの任務で地方に赴き、そこの住民のルールから排他的な姿勢とぶつかりある種の葛藤を生じるような物語が好きなようだ。(刑事ジョン・ブックをはじめ…)

この極めて地方性の高いショット、映像は近作では『ウィンターズ・ボーン』にも備わっている。これらの作品はその住民が何らかの謎や隠し事を持っており、その隠し事が脅かされる存在を排除しようというもの。最近のトレンドなのかは分からないが、これは私自身が名古屋勤務のときに感じた感情に非常に近いものがある。私が年代の近い先輩から排除されようとした原因のいくつかが、東京人であることや、美大卒、学プロといった経歴上のものであることは明らかで、従来の会社内での体育会系の暗黙のルールを脅かすものであったからだと思われる。もちろんそれだけが原因ではないにせよ、この地方独特の排除に働く作用というのは私も必然的に研究材料として採用したくなってしまう。

本作でもデフォーが村のバーに登場するや否や、デフォーに警告をするシーンがある。これは映画では極めて良く観られるシーン。西部劇でゴロツキがたまる街に、一人の男(後に英雄になる)がやってくるという言わばお約束である。しかしお約束事でありながら、ここ近年のこのトレンドを観るとこの日常の西部劇化ということについては何か深い意味があるような気がしてなりません。情報格差はインターネットによって平等に進んでいるようですが、身体や都市といった観点から観れば増々進んでいる。ここに一つ隔離された情報と都市・身体という謎が私には浮かび上がってくる。

■シネマート新宿『CUT』監督:アミール・ナデリ
映画についての映画だが、本作は様々な名画の引用がなされさながら現代に蘇る『ゴダールの映画史』のようであった。シネコンが氾濫する現状を嘆く主人公が、真なる映画芸術に向かうべく自主上映会をマンションの屋上などで行っているが、兄は借金だけを残して消えてしまった。借金を返済するために殴られ屋になり、何発も殴られる中で、主人公自身が思い起こす映画のタイトルが、黒画面に白テロップでおどろおどろしく挿入されていく。それらの映画が意味するものは単なる映画愛なのか、それともそこに辿り着かせる事がこの映画の趣旨なのか、一見すると分からない。ただかつての映画こそが映画芸術であるという西島秀俊演じる主人公の叫びと、演技はそれを凌駕する説得力で提示される。そこにある暴力にまったくもって嫌みがないのも不思議なのだ。(ハードロマンチッカーにあった嫌らしさがなく、何故か爽やかな印象を受ける)実際のところリアリティというよりかは、一つのフィクションとしての強さを感じさせる。監督のメッセージは主人公そのものだから、それらの映画の引用は恐らく監督の好みであろうと思われる。だからある意味では、これこそが映画だというある種の「説教映画」とも言える。しかしこれを説教から回避しているのが、何発も殴られる男の純粋過ぎる想い(映画にこそ許されるフィクション性とロマン)だからではないだろうかというのが、個人的な結論なのだ。松江監督の『あんにょん由実香』はドキュメンタリーという方法ながら、ラストは「映画」だからこその奇跡にかけるという収束に向かう。つまり現実の素材をかきあつめ、編集、構成していき映画として映画ならではの映画という方法(撮影・俳優・編集等)を用いてラストシーンを無理矢理にでも作っていくということなのだろう。それを「信じる」「想い」という言葉で果たして解決してしまって良いのか。それこそそこに批評が飛び交うのだが、この『CUT』は西島の狂気性を持って突き抜けたものになっている。それはきちんと映画としてある一定水準を越えているから故の説得力である。これはプロレスについての脱構築を計り、プロレスできちんと説得力を持たせるというかつての『マッスル』とアプローチがほぼ一緒である。これらの作品を作り上げてしまうとそれを越える題材や、アプローチを見つけられないといった悩みにさえブチ当たりそうだ。それくらいのセルフ・ドキュメンタリー性を兼ね備えた題材であろうが、コチラ側に突きつけてくるメッセージに「本流をみやぶり闘え」と言われているかのようでもある。

真っ暗な部屋に裸になった西島が自分のカラダにフィルムを映写させるシーンには、やはり映画ならではの狂気と、ノスタルジー、「映画とは何か?映画とはどんな装置なのか?」という根源的テーマを与えつつ、一種の高揚を与えてくれる。タランティーノの『イングロリアス・バスターズ』や真利子哲也の『マリコ三十騎』といったフィルムの有機性を軸に物語を進行していくタイプ。

新宿バルト9『【2D字幕】タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密
凄過ぎる。3Dアニメとはいえ、ほぼ実写と見間違えるほどに鮮明な質感と、やはり3Dアニメならではの自由なカメラワーク。ここまで来たかという感じで、映像作品の技術という部分では個人的に最高レベルのものがタンタンだと感じる。ここまで凄いと作品の粗というべきものが見当たらなくなり、かえって作品の印象さえ弱めてしまいそうだ。完璧であるということは、同時に生じるつまらなさとも闘わなくてはいけなかったりするものではないかと思うのだが、欠落がないということがこの作品のたった一つの欠点であると思われる。あとはマネが出来ないというか、もうどうやって作っているのか分からない。そんな突きつけられた感がある。それは人間味に欠けてしまうというか、人間そっくりであるが故に人間味に欠ける。アニメーション故の可愛さとか考えてしまう。それにしても敵と味方がバトルする坂道のカメラアングルは実に見事だった。あのシーンだけでもどのような作り方をしているのかが知りたい。つまるところメイキングがとても気になる作品だ。