『男色牧場CLASSICvol.4〜怪奇!ある下着男の最期の巻〜』発売!

澤さんと向き合ってみて、太陽のような存在である人間と出会える自分の人生に少し感謝したくなった。

短い間だったけど、澤さんを撮影して、話を聞いて、編集をして。そんな時間がひたすら愛おしい。

澤さんという肖像と向かい合うことは文字通り「やり過ぎくらいが丁度いい」という名文句を体感することだった。どれだけこの言葉に僕自身が何度と気持ちを後押しされたことだろう。

拙作『ガクセイプロレスラー』を澤さんは引き合いの出してくれた。ご自身は学生プロレスをしていたわけではないが、まさしく自分の学生時代はこんな感じだったという感想を述べてくれた。澤さんは間違いなく「僕ら側」だった。

ボンクラであるということはどこか後ろめたい。モテないエネルギーや、自分自身のやりきれない表現願望は一体どこに向かえば良いのか、全く分からないまま日々は過ぎていく。だけどそんな今の時代にありふれた悩みの中で、澤さんは突出して答えを見いだしていた。

それが「やり過ぎくらいが丁度いい」だった。怒られるラインと、世間的にはぶかれるライン、だけど遠目から見てちょっとそんな青春が羨ましく思えるライン。それこそが「やり過ぎくらいが丁度いい」というポジションだと思う。だからこの概念は誰しもがすることが出来ない。そう言い切って人生を過ごす事など普通の人は出来ない。ブラジャーを付けてリングに上がることに抵抗のない澤さんという生き方は自分の体を後ろ盾にして、それでもビール一杯が美味くなってくれれば良いという回答だった。

これは僕が美大に行って4年間通った答えだった。元来の美術作品にコンプレックスがあった僕が出した目の前の「とりあえず」の答えは学生プロレスの世界で青春を謳歌することでした。モテないけど、それでも叫ばずにはいられない己のエネルギーを表現として言い切ることで、僕は何とか4年間をやり過ぎくらいがちょうどいい卒業制作『ガクセイプロレスラー』で昇華することが出来た。モザイクなしのチンコ、血まみれの背中。いろいろと実行委員会には釘をさされたが、僕からしてみれば「やり過ぎくらいが丁度いい!スマン!」だったんだ。

最近、ノリだけではどうしようもないと思い始めてきた。きっとそういう壁にぶつかっていると思う。ノリだけではなくて、整合性やサイコロジー、動機といった物語の必要性をもう一度叩き込まなくてはならない。

ただし「ノリ」というものは案外学んで得られるものでもない気がしてきた。後者の技術は後で勉強すれば何とでもなるが「やり過ぎくらいが丁度いい」という精神性はおよそ簡単にえられるものではないと思う。だから澤さんと「同じ」匂いを感じたとき、その感覚というものはこの世間と対峙する上で「持ち続けて良いんだ」という確信に至らせてくれた。

とても短かった。澤さんともっと仕事がしたかった。だけど、澤さんの新しい人生を心の底から歓迎している自分がいる。何も一つの職業が全てではない。僕は澤さんのラストという光景から普遍的な信念を改めて心に刻むことが出来た。

これを活かすも殺すも自分次第。「やり過ぎくらいが丁度いい」でやってみようと思う。

構成・編集 今成夢人『男色牧場CLASSICvol.4〜怪奇!ある下着男の最期の巻〜』はコチラで販売中
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■師匠に良く言われてることだけども、編集しながらやはりワビサビだなと思った。そういうものがないものは悪い意味で学生っぽい。学生なら学生で「学生」という価値があるけども、それもないのなら…という話にもなってしまうのかな