この辺りの面白さが目標。

今日の映画論。

実は最近四六時中、映像に触れていることに気づいた。仕事で何らかの撮影や編集をしているし、時間を見つけては映画館に足を運び、自宅ではブルーレイやらDVDやらの視聴が止まらない。しかしどうしたものか、学生時代に鬼のように映画やDVD漬けの毎日だったことから確実に感覚が変わっていることに気づいたのだ。別に何てことはないけど、この感覚の違いは自分にとって非常に重要な転換期のような気がしたので、ここでこの感覚をなるべく近い形で書き残しておこうと思う。

学生時代にはそれこそどんな映画でも見た。しかし段々と数をこなしていくと、日本のテレビ局映画は自分の人生に何も与えないことが分かったり、さらに言えばその視聴時間を別に回して、もっと異なる体験をした方が自分のためになるとさえ思えてきた。映画は映画としてスクリーンで上映された以上は平等だ。だけど全ての映画が見て良かったと思えることは少しも保証されていない。だから映画を数をこなす作業はある時点で終わった。数を見たという事は自分のステータスでも何でもないということが分かったから。もちろんある程度の数を見れたから、その段階に行けたわけで、全く無駄だったということではない。『少林少女』を見る事が如何に時間の無駄だということを知るには、一連のテレビ局映画を集合として見る事で理解が出来るようにだ。

だから自分が作り手になっていく以上、自分がこういう作品を作りたいという指標の作家や、作品は必然的にしぼられてくる。自分が雑種だなんて思ったけど、結局自分の好みと、では何故それを好むかというのは、論理的なこと以上にかなり手前のセンスや生活面での価値観になるので、仕方ののないことだ。だから雑種なんてあり得ない。

で、そういった自意識を芽生えさせる作品、興行に出会ったので、それらの作品を引き合いに考えてみたいと思う。

テアトル新宿で、『movie PAO』という若手気鋭監督の短編、中編作品3本立ての興行を見た。そしてこれらの作品を見て、久しぶりに映画で怒りが湧いたのだった。映画に対して怒りが湧くというのは、作り手の価値観や、姿勢に対するものであったり、共感を得られないことへの起因がほとんであると思われるが、今回はちょっと違った。今回のmovie PAOは若手を育てるための企画であるのに、どの作品も監督も、演出も役者もどこか「余裕」が見てとれるのである。この企画に助成金があるのかは分からないが、何だかそのテンションで撮って良いの?と疑問を感じざるおえなかったのだ。この「余裕」から生じるいけ好かなさは、もはや作品内で止まりようがない。「このセンスが分からないヤツは置いてけぼりで良いや」という監督側のエゴにも似た主張が垣間見える。「こんなもんで良いよね」「ここでこの音楽でいいよね」「ここで手持ちで良いよね」そんな「しょうがない演出」に画面が覆われていた。一言で言うと「チャレンジがない」。世代で括るつもりはない。世代的にしょうがないとか馬力がないとかそういう話では解決にはならない。ただこの演出を内輪で褒めてはいけない気がしている。スクリーンでかかる以上は平等なんだから。

真利子哲也さんにも期待していたのだが、とんだ肩すかしを食らった気分だ。そんな余裕があるなら、もう見たくないよ。切羽詰まってカラダを張る演出が「らしさ」なのに、そんなずる賢くなられても全然乗れない。他の作品も豆腐屋を舞台にして「映画っぽい」ルックだけで、「映画」と言い切るにはギリギリすぎる作品が生まれていたり。短編3本で中途半端な予算設定もきっとよくないのだろうが、それならそれで他にやれることがあるだろうが、企画が悪いと言い切るにはあまりに監督陣が努力をしていないんじゃないだろうか。残酷だけど映画の「カメラ・アイ」はそれを如実にまた見せてくれるものなのかと。

そんなわけで、これが映画界によって「良い運動」だとして後押しされているのが気持ち悪い。会場のお客は皆退屈していたし、誰も監督に感想を言いに行かなかった。単純につまらなかったんだよ。舞台挨拶でも、ステレオタイプの挨拶しかない。もうそれだけで作品がつまらないことを保証しているもんな。だったら辞めちゃえよになってしまう。毎回面白いものを作れる保証なんてない、反省がないことなんてない。けど、全力は出すべきだ。余裕を見せるのは10年選手からだ。だから若手と呼ばれているうちが華だし、若手と呼ばれている内に考えなくてはいけないことがたくさんある気がしている。

マイ・バック・ページ』公開にあたり山下作品絶賛ムードが世を包んでいる。これが本当に気持ち悪い。正直、山下作品にはこれまでほとんど乗れたことがなかった。オフビート系の系統に類する映像で人気を博しているが、自分はそのオフビートに乗れない。オフビートな余裕が生活にないことが起因していると思うのだけど、やっぱりオフビートが鼻につくのは、そこに「映画としてもっと面白くなる余地」を実は崩しているからだし、映画的興奮とまた別物の自己肯定を押し付けられる感じがあるからだ。『マイ・バック・ページ』は誠実な映画だし、山下作品の中でこれまでのテイストを打ち破りにいった作品だろうが、やはりオフビートな視点で見れるテンションでもないし、それを時代の代弁ととるには語弊がある。ここでこの作品群を褒めたたえられるのは一種の「村」が形成されているからに他ならない。

この「村」が厄介だ。自分のフェイバリットなものは、他者がフェイバリットと賛同することで波及していく。TwitterでいうところのRTという機能に他ならないのだが、RTは基本的に他者の意見なり主張をあたかも自分の主張のように錯覚させる作用も持っている。だから言うなれば「流された意見」とも言えるわけだが、この流された意見が実は村の中で巡回しており、外界の世界から覗く人にとってその村の中のしきたりや意見を鵜呑みにしやすいということになる。映画界を覗けば何故か気になる黒沢清の絶賛ムード。黒沢清が多角的な視点で発言出来る貴重な存在であることに疑問はない。しかし、彼が育てる弟子の意見が「黒沢清のRT」になるのは果たしてどうだろうか。

「影響を受けたもの」をどこまで肯定出来るか。作り手にとって重要なのはその部分だ。「好き」だから参考にする、「映画っぽい」から参考にするといった手段でコピーが量産される。そして評価も量産される。しかしそれは村の中で生産された地域限定のお土産に過ぎない。だがそれは本当に本人の意思なのだろうか。意見なのだろうか。それは疑問だ。弟子が師匠によって育てられ、世に出ていく。しかし過保護な大学院から放たれた作品には、やはり師匠の影響をフラットに捉えられずに、洗脳されたままの範囲での作品も垣間見える。それは「似た」ものの生産であり、新しいものの生産ではない。

インターネット以降、評価は誰しもが与えられる事になった。評価を与える市民権がより可視化した。専門化の意見だけでなく、一般の方の視点が購買の参考になることは少なくない。興行に行く、行かないの判断にもなりかねない。良い意味でも口コミの効力はここ数年で一つの権力になった。しかし依然として「村」の評価は専門家や評論家が決定権を持っている。偉大な人が代弁することで、気持ちが煽られる。「あの人が言っているから面白そう」という価値基準は揺らぎない信頼として伴ってくる。しかしその価値基準が、個人の視点をも喪失しかねない。自分の意見を言いづらい雰囲気。つまり組織化である。組織を動かすのは総意としてのチームワークだ。個人は監視され、その行動は制限される。組織に本質的な自由などあり得ない。でなければ組織は機能しないし、崩壊してしまう。秩序が必要だから。しかし秩序も暴走する。アメリカでは金融界がグルになり、上層階の人間たちによって金を搾取されてきた。政治や金の問題は日本においても、原発問題によって可視化する。巨大になればなるほどに、問題は起こりやすく、またそれを組織として個人の意見を抹殺する作用を働かせる。芸術は流派を作る。流れや運動が巨大になり、個人から集団の思想へと変化する。しかし集団の思想は新しい個人の思想を摘む可能性だってある。影響を受けることから避け続けるのは難しい。何かから影響を受けずに、自分の思想を持つなんて難しい。だからこそ勇気を持って自分の思想を持つことが重要だ。だから批評や評価も鵜呑みにしてはいけない。共通された評価と価値観は権威によって何らかの見えないバイアスがかかり続けている。しかし一から露出出来るほど甘くない。だから集団に便乗することは避けられない。でなければ「運動」は生まれない。よほどのプロデュース感覚がない限り。

プロレス界も似た現象が起こる。取材対象としたプロレス団体を絶賛し続けるケースや、客観視出来ずに主観や妄想を介在させた文書を多く見受けられる。それはもはやジャーナリズムと言えない。乗っかり精神が生んだ癒着な文章だ。だからプロレスには客観性があまりない。主観のエンターテイメントだ。主観と主観の介在。だから面白いのだが、そこに更なる「乗っかり精神」が生まれ続ける背景はどうかという気もしてしまう。ジャーナリズムと言える報道が通用しないプロレスはやはり「プロレス的」と言われていくのか、答えはまだ見えない。少なくとも特殊性においては秀でている。

何かから影響を受けざる終えないし、ある種の癒着関係からは避けられることは出来ない。
だからこそ、そんな状況下で個人の思想に気づくことが重要だ。自分がどう思うか、自分の感性をどこまでリスペクトし研ぎすませていくか。そんなことが難しい時代とも言える。


それでも自分が面白いという感性を突きつけることの出来る作品はまだまだ世に出続けている。それに何の情報の下調べもせずに出会う喜びもまた普遍的に存在しているのだが。だからここで今、自分が重要に思える映画をきちんと整理したいと思う。

今年に入って現在、自分の中である面白さを突き抜けた作品群。
アンストッパブル』『ザ・タウン』『ザ・ファイター』『アンノウン』『ブラック・スワン


特にベタとも言える『ザ・ファイター』は映画の王道とも言うべきボクシング映画だが、役者によるその役者にしかあり得ない領域に達しているという意味で面白さを突き抜けている。クリスチャン・ベールのやり過ぎな演技はかつてのデ・ニーロを彷彿とさせるが、その存在はもはや稀である。王道を王道として突き詰めていく。そこに流行りとも言うべきドキュメンタリータッチを難なく組み込んでくる。「ドキュメンタリータッチ」がドキュメンタリータッチという呼称で先行するのではなく、映画として表現するために当たり前になった瞬間であるように思える。このドキュメンタリータッチが生むのはカメラの不安定さだけでなく、圧倒的な臨場感と動き。「観る」ということが、実に多角的になっている現代においては、このブレブレの画面と激しい動きにいつのまにか視聴者は耐えうるようになっていった。改めて先鋭的な手法が、当たり前になった瞬間を捉えている。

アンストッパブル』は暴走列車を止めるという映画。そもそも映画の起源がそれなのだから。

『アンノウン』は徹底してどうしたら面白く脚本が転がるかを真剣に考えているエンタメ映画。

他にも枚挙にいとまがないが、やっぱり「面白い」と思える映画が指標であることに変わりはなさそうだ。