5年という月日

疲れている。

何というか、自分自身が心底休める時間がないというか、何故かいつもハラハラしてしまう状態が続いている。困ったものなのだが、それは何かしら自分の望んだことでもあるような気がしてしまって、それもまた困ったものだけども。

相変わらず息抜きが下手だ。ちょっとボーっとしたい。
だけど何かせずにいられないのも事実だし。

確か大学の授業もバイトも、なるべく出るようにギッチリ余裕なくスケジューリングしてしまいいつも困っていたっけ。だいたい気合いで乗り越えようとするんだけど、ケアを忘れてしまうからよくない。

従兄弟の結婚式に出れるか怪しい。というか出たら仕事はアウトだし、出なかったら不義理な罪悪感に苛まれる気がしている。

とりあえずどうでもいい現在の精神状態を書きおこしてみたのは、何気なく今日が母が亡くなってちょうど5年という月日の経過であるからだ。

5年というと、10年単位で言うところのちょうど折り返し地点。一つの時代の約半分だ。その間、父親と二人暮らしになり、精神的にも何かと辛い状態をひた隠しにごまかしていた部分もあった。就職活動もし、さらに自分の精神状態をさらに追い込んでいった感がある。今では母親不在は自分にとって当たり前のことだ。

だいたいガミガミ何かを言われることはなくなった。地元の友人の噂を母親ごしから聞くこともなくなった。テレビの前でずっとだらだらと過ごしていた母親を見ることはなくなったから、必然的にテレビも見なくなって芸能人等の情報には疎くなった。だからどうとういうわけではないけど、母親の不在ということは特に意識下することなく、自分は生きていけている。

ただどうしたことだろうか。急に「母親の意見」が聞きたくなるのは。確か亡くなる一ヶ月前に僕は大学で見た「刑事ジョン・ブック」という作品の感動を母親に伝えてみたら、母もやはりその作品を知っていて、いかに良い映画かということをちょっと雑談していた。母が人生において成し遂げたことはハッキリ言って少ないと思う。普通にミーハーで、普通に明るくて、だらしなさもあった。しかし人間っぽさは群を抜いていたような気がしていた。友人関係でも慕われていたような気がするし、よく遊んで、よく色んなものを観賞していた。そんな人だった。携帯電話がある程度普及していても携帯を持っていなかった。ガンの治療があって、その辺りから携帯を持つようになったけど、だからといってそれで頻繁に電話をしているようなことはなかった。いつも家の電話で近所の奥様方と長電話をしていて、僕自身が思春期にさしかかるとそれがうざったくも感じられたけど、まあ良いかという部分で受け入れていた。
映画を作りたい自分を今見たら何というだろうか。テレビ局を辞めたことを聞いたら何というだろうか。その時に何というか。。母親にしか出せない意見が聞けないのが寂しいのだ。

今だったら「母ちゃん、ブラック・スワンはどう思った?」
とか聞いてみたかったりする。母親との議論がない。それが一番辛いし、今の自分にとっては圧倒的な「不在」を感じる部分だ。

記憶がどんどん曖昧になっている。母と一緒にいた感覚、どんな声だったか、どんな風にいつも一緒にいたのか、どんどん忘れていっている気がしてしまう。なんだかそれが実はとても切ないことだということにだんだんと気づかされている。

それは「母親の意見」がないからだ。母親はこれといって「凄い人」でも何でもないけど、やはり自分のことを見抜いていた人だったと思う。美術大学受験でデザインに苦心していたときも「アンタはデザインじゃなくてアートなのよ」と何の突拍子もなくズバリと言いきったり、なんだかんだで僕の性格やスキルを把握し、僕が出来ることの可能性の範囲を把握していた気がしている。

母はこれといって僕に対して「この職業に就いてほしい」などという希望は持ってなかった。
だけど何かしらの競争を煽れる部分は確かにあった。
子供の時、プールの進級試験に落ちて、友人が進級し、自分のダメさが際立ち、特訓をさせられたり、
幼稚園の帰り、母親が来なくてよく寂しく泣いていたことで、怒られて道に捨てられそうになったり、

何かそんな記憶は残っているけど、不思議な感じ。
ある時に母に聞いたことがある、「僕にどんな大人になって欲しい?」という質問に明快に答えてくれた

「素敵な大人になってくれれば良い」

と言った。
果たして「素敵さ」とは何だろうか。

本当にオチはないのだけど、おそらく一生これらのことは想い巡るのだろうし、背負って行かなくちゃいけないんだとは思う。
自分の人生において母親が死ぬことほど悲しいことはないと、リリー・フランキーが言っていたことに同意する感じなんだけども。

おそらくそれを乗り越えたから、頑張って行けると思う。不安を感じるより、楽しんで生きて行きたい。