社会人2年目

社会人2年目になった。ちょうど一年前は入社式があって、どうだ放送人になりたいか決意表明のようなことをやった気がした。ビールの瓶を持って先輩方の顔色を伺いながらサイズの小さい窮屈なスーツをまとって、コップについでいった。結局のところ、自分は未来を担う放送人にはなれなかった。業界のことを考えることも、自分の将来を考えることも億劫になっていた。2年目だからといって会社員ではないから、社長の挨拶があるわけでもない。社報があって、どんな新入社員が入ってくるかという情報が入ってくるわけでもない。だから今の自分はやっぱり会社人ではない。自分の希望でそんな生き方になったけど、2年目を迎えるとそれはそれで寂しくなる。社会人二年目という区切りと、自意識は会社に属しているか、属していないかという部分でだいぶ異なるように思える。このまま年を重ねていくことにとても恐怖感がある。精神的なストレスははるかに少なくなっただろう。だからといって後ろめたさは決して消えない。それは単純に社会人という言葉が=会社人という言葉に言い換えられるからだと思う。やはり表現者たるものは社会からはじかれた者なのか。社会とどう自分を結びつけていくのか。そんな部分も含めて現段階で作れるものがある気がしてきた。今のこのどうしようもない感情。だけど、表に出ることなく、それでも実は多くの人が抱えている感情。勝ち組、負け組という言葉の中で、その間を行き来したり、転落したりする人たちがいるということ。震災があって「終わりなき日常」という状況が一変したと言われている。ぬるく生きられる現代が、そうでもなくなってきている。もともとぬるく生きられる中で、危機意識を持ちながら生活してきたつもりだけども、それ以上に大変なことになる。今、同世代がどんなことを感じながら生きているのか、どんな活躍をしているのか。側面だけでは人間なんて見えて来ない。もっと多種多様の刺激や体験が必要なのだろう。だから後悔も、後ろめたさもひっくるめて背負う。そして書いたり、撮ったりするしかない。


情報を獲得することでどうなるのか。Twitterで流れるTLの情報は果たして本当に革命であろうか。自分にとってどう情報を扱い認識するか。これから大変。そういえば自分の大学の学科も情報デザイン学科情報芸術コースだったな。なんでもありだけど、その名称の意味がじわじわやってくる今日このごろ