奇跡の海

多摩美の卒制展中止にTwitterで意見をtweetしてみたが、個人的には「しょうがない」と「やれることがある」という狭間の状況に立たされたとき、それぞれの作品のメディアとしてのアプローチが際立つし、真価が問われるなと感じた。仮に映像作品だけであれば強行は可能だし、大きめの立体作品であれば中止にする理由の一つになりかねない。作家たるものそれぞれのメディア状況を把握して緊急時の状況で作品の立場がどのように変容するのかは常々考えなくてはいけないのかなと。そういう部分では多摩美のフロントの人たちも中止決定を潔く決められなかったことにも迷いがある気がした。ただ大学という環境に馴染んでいる人には適切なフットワークなど持ち合わせていないのかもしれないが。

■そんな状況下の中で家でDVD鑑賞。視聴環境を限定しないDVDって思っていた以上に強固なものかもしれない。「待機」状態や生活に密接した中での表現メディア。松江監督が『DV』をDVD作品としてリリースされたことも、これらの意味を多分に含んでいるであろう。ならばドメスティックな環境で視聴が出来ない作品はどうすべきか。アーティストは考える必要がある

■個人メディアはバラバラの石のようなものだが、今後の作りてはその石をパズルのように組み立てる感覚が要求される。フェイクドキュメンタリーと、3D映画が両極の軸で語られる中、どんなベクトルを向けるべきか。

■DVD『奇跡の海』監督 :ラース・フォン・トリアー
冷たい熱帯魚』のパンフレットで園監督はトリアーに救われたと言っていた。鬱状態になったトリアーは鬱状態であるが故に作れた作品として『アンチクライスト』を作ったらしい。そんなアンチクライストの予習としてトリアーの作品をいくつか見ておきたい気分になったのは、自分もこうして名古屋で鬱状態を患い何とかカムバック出来たという想いがあるから(被害妄想ともいう)。そんな中ドグマ95のムーブメントがただただひたすら今になって気になりはじめていた自分。ハーモニーコリンの『ジュリアン』の圧倒的な正解例と、インディーズならこの撮り方でいけるだろうというやる気を高めさせてくれるものだから。奇跡の海は救いようのない関係性の崩れを映画が破綻するギリギリのレベルで描いていると思う。救いがない作品を撮るということは同時に作品そのものの製作過程が破綻しかける要素が高まるということが最近分かってきたように思う。この作品が破綻しているかと言われれば全くそのように思えないが、結果として時間が経ちトリアーは鬱になった。ただそれだけでも、作品を創ることが自分の身を削ることだというこの証明でもある。ひたすらエミリー・ワトソンがイタい女性を演じきる。愛しすぎるが故に、夫が「他の男と寝ろ」と言えば、あっというまに売春婦へと変身する(これまた売春婦になったらなっただけ、色気が比例して増すという凄さ)。強烈な感情の浮き沈みの中で、時の神にすがり、時に友人にすがり、時に母にすがる様は人間の弱さそのものである。最終的な末路、すなわち死は「救いがないこと」の延長にあるにはただ残酷で当たり前な「死」でしかない。ただし映画には文字通りあの世に行く「死」と何かを失う事で「死」を感じさせることと様々なわけで、直接的に「死」を描ききる必要はない。しかし『レスラー』のように限りなく「死」を予感させるラストといい、手持ちカメラやロケーションに限定させる「ドグマ95」のような手法スタイルはやはり「死」を連想させるにはもってこいの発明でもあると思ったのだ

■小学校の同窓会。集まったのはわりとすぐに集まれるメンバー。これといって新たな発見はない。大体こういう席で話題になるのは彼氏、彼女だとか誰々が結婚したとか、今の自分にはあまり関心がない話ばかり