写真1

何かいつのまにかTwitterで「写真」というキーワードから連ツイしてしまった。ちょっと過剰に連ツイしてしまうのが、私の悪い癖で。そんなことなら、140字じゃなくてたっぷり書きなさいよというのがもっともなご意見になるところ。twitterもフォローしていれば無理矢理見なくてはいけないメディアっちゃメディアだからな。

何で写真についてふと考えたかというと、現在「路上プロレスDVD」の編集が佳境を迎えているから。当然ながら、その光景の荒唐無稽さに編集しながらニヤついてしまったり、何だか自分でもキモい状況なのだけども、編集しながらにしてスチールの写真がないことが惜しいなと思えてしまった。もっと言えばHDで撮れていれば尚更だし、申し分ないのだけど、これだけ路上としての景色の美しさと、惚れ惚れする肉体を持つレスラーたちが日常と非日常を折り合わせて闘う光景なんてないのだから、主催する側ももっと「記録について真剣に考えていかなくちゃいけないんだな」とおもった。

DVDジャケットのデザインをどうするかについてあれこれ考えてみたのだけど、「路上」というテーマから文字通り「路上スナップ」を撮り続けている森山大道の写真集のようなジャケットに出来ないかなと思った。もっと言えば「路上」には「路上」に相当しいルックがあると思ったから。そこから連想されるのが森山大道さんだった。

ぶっちゃけ自分はあまり真剣に写真について学んでこなかった。暗室の講座も、写真実習の授業もちゃんととったにも関わらず、釈然としないまま今日まで来てしまった。写真の見方が分からない。良い写真と悪い写真の区別とか、写真コンテストの基準も分からないし。何となく構図とかは分かるけども。だけども今こそ「写真」の見方を勉強する時が来たような気がした。というかその目線や視線、さらには時間軸の中での一瞬という要素が自分に加わるだけでも、今後の活動や企画を考えていく上で多いに役立つような気がするから。

一応「プロレス」に関してはそれ相当の研究をしてきているつもりなのだけども、ここ近年プロレス雑誌もプロレス中継も見なくなった。単純に「プロレス」を見なくなったとも言えなくないが、やっぱり「プロレス」というよりも「媒体」にこそ原因があるのではと自分自身を疑ってしまう。週プロはパラ見だ。読みたい記事もあまりなければ目に留まるような写真も、何故か最近は出てこないような気がする。あれだけプロレス少年だったこと「週刊ゴング」を隅々までみていた男とは思えない。どうしてだろう?

ちょっと前に「Gスピリッツ」というプロレス雑誌を買った。決めては記事の重厚さと、写真である。しっかりとした紙に、モノクロで鮮明に描かれたレスラーにそれは自分の中で「買わなきゃ」と同時に、良いメディアだなと思わせる何かがあった。

大学2年時に課題でフォトスライドショーの制作課題が出た事があった。動画を使わないことを条件に出た課題で、自分は母の法事の際に赴いた新潟の地と、墓参りの瞬間を撮影し、それをモノローグで音をかぶせる作品を作った。時間がなく計画性もない中、急ピッチで作った作品ではあったが、何故かほめられた。そこで学んだ事は「静止画は語る」ということだ。『ラ・ジュテ』に代表されるスチールとモノローグのみの作品群は、今の大量情報時代にはあまりに不親切だろう。だがそれは同時に多くの想像力を失わせたように思える。見えることが当たり前になる。フレームの外側の情報を認識することなくひたすら、フレーム内の情報を鵜呑みにしてしまう。そんな危険性はテレビの発達とともに飽和状態になったように思える。映像と文字は市民化された。映像も文字もWebの恩恵を受けることでより身近に操作出来る。市民はテレビの情報を鵜呑みにすることなく、自身で見た「何か」をより大事にするようになっていっている。写真も同様だ。誰もが気軽に写真を撮る。「写メ」がもたらしたのは各個人が画像を所有したことにある。その画像の使い方はまた人それぞれであるが。しかし写真が放つ意味について考えたる機会は減ったように思える。その気軽さ故に、「写真」を「写真」として捉える感覚が失われた。紙に印刷されていないから、手にとることではなく眺めるだけだから。写真が組合わさった時、人はその脳内に自分のストーリーを描く。卒業式のアルバムなら「卒業式のシーケンス」が脳内の発生する。静止しているだけで。じっとしているとはどういうことか。ここが分からない。動いているから安心するのか、はたまた動いているから面白いのか。最近分からなくなっている。だから考えたい。あえて写真について。