今、思うこと

とても勉強になったというか、何というか。

ドキュメンタリーって恋愛と似ているのかもしれないけど、もしかしたらそれが必ずしも恋愛として成就するというわけではないんだということを痛感した気がした。

自分が考えれば考えるほど、相手は自分のことや作品のことを考えていなかったりする。そんなことって完成した後により強く感じたりするのかもしれないし。

世のドキュメンタリー作品も作品内の時間軸はとても良い物語に構成出来ているものが結果として多かったとしても、人生という長いレールに地続きで見たらただの残酷物語にしかならないなんてことさえあるのだということも。

ドキュメンタリーは人生の一部分を切り取って構成、編集に過ぎないものであると同時に、またその人生の一部が物語として語り継がれる可能性があるものであると思う。

世のアート作品も、エンタテイメントと呼ばれるものも、答えはあるようでなかったり、ないようで明確にあったりする。そんな狭間の中で果たして僕らは何を感じ続けていけばいいのだろうか。

情報も自在に取捨選択出来るほどに大量に溢れている。Twitterだって必要だと思う情報にはフォローすれば良いし、必要じゃない場合はアンフォローすれば良い。情報の選択はその人自信の手に結局のところ委ねられる。

情報操作というか、構成・編集を加えている時点で厳密にはドキュメンタリーは客観的と言えずに、その作者の主観であると言えるだろう。だからこそ、そこに真実を見いだすのは作者が己に嘘をつかずに、その作品内に感じた正論を出すしかない。

自分の中で『第2部』が始まったなと思った。作ったり、感じたりするそんな諸々の出来事の『第1部』が終わった。第2部は何かと言われると「プロ意識」になるのだろうか。けど「プロ意識」ってそもそも何だろう?じゃあ「アマ意識」でやっていたと聞かれれば、全然そんなつもりで作ってない。だって情熱は常に燃え続けてきていたから。今も燃えているわけだが。ふつふつと。何かがわき上がってきている。学生時代からそうだったような気がする。学生気分だとか何だとか言われても、ちゃんと学生時代にやるべくしてやったものは通過したんじゃないか。自分の創作物が「ちゃんと見てもらえている」喜びもさつことながら、自分の意識が変わっていることが、自分自身でも自覚出来るようになってきた。これはなかなかのハイスピードで進行している。自分自身が置いてけぼりさえくらいそうな。

今、考えると美大に行こうとした動機さえ不純であった。持っていた表現願望が実にインチキ臭く、今思うとあの覚悟でデザイナーになりたいだのとよくぬかしていたと思う。普通の大学に行くことを拒否してみたのも、ただの「直感」だった。結局のところ何を信じて良いのかなど分かるはずもなかった。恥ずかしいことだらけだ。振り返れば、その時に抱いていた「覚悟」の中途半端さが恥ずかしくなる。結局、振り切れない人間は振り切れないまま終わる。「会社に勤めながら、作品創りたいと思います」そうこう言って「逃げ」の理由を前提を作っている時点で既に中途半端。だから今、考えるとキッパリとテレビを辞めてよかった。ずるずると5年、10年いてももうしょうがなかった。人間にはしかるべきタイミングと運気がある。それは決して逃すべきではないし、そこを見破るセンスもまた同時に求められている。漫然と取り組む姿勢は次第にバレる。ゆうばりで感じた悔しさと、ちょっぴり感じた自信は、「創る覚悟」がなければ決して感じることはなかったと思う。それはハッキリと危機感に繋がる。「ゆとり」に起因されるのは勘弁だが、その世代が「危機感」を持って取り組めるかどうかは別問題だ。「危機感」が我々の世代にあるかどうかは、その人次第になるのかもしれないが。問題意識を抱えながら生きている同世代は僅かであり、また貴重な存在だ。

そんなことを考えていたら、数日前にアーナルガ・シワクチャジャネーガーから電話があり、今度会う事になった。同世代で確実に「意識」が違う人間。刺激に満ちあふれ、また批評と情熱と覚悟を持って日々を過ごしている男だ。その男が自分を指名してくれたことに喜びを素直に感じながら、またしかるべき今後については常々考えていきたいと思う。