「悔しい」という感情及び「ライバル」について。

■色んな感情が巡っているが、今起こっている事を冷静に書き起こし、今後の糧にして行きたいと純粋に思った。本格的なブログの復帰記事のキッカケにもなると思う。

twitterというメディアが発達し、情報の選択は各個人にかなりの割合で担われることになった。テレビ、新聞などのマスコミが放つ話題の共通性は「必ず知ってなくてはいけない」情報ではなくなった。それは時代の流れの必然で、SNS、インターネットの流れからして、情報が細分化された結果、そっちの方が面白かったり、居心地が良いと感じられたりするのは実に当然の結果であったように思う。だからこそ、その細分化された情報は自分にとって「悔しい」という感情を発露させるものであったり、しっかり「ライバル」という人間が存在していることを示すことになったと思う。

大学の後輩の松本君が卒制が完成してまもない一ヶ月、早くもドキュメンタリーコンペに入選していた。自分もそのコンペに応募していたが、ふるわずに落選した。早速その公開審査会の模様がust中継されていたらしく、審査員は田原総一郎森達也といったそうそうたるメンバーだったという。まあ、何というか単純にうらやましいというか、嫉妬ですよ。このお二方に関して言えば、創作活動をしていて意識しないなどということはありえない。それだけ目標となる「アイコン」であり、また時代の礎であった。そんな方たちの作品を見せる機会や、アドバイスをいただける機会があるというのはこの上ない嬉しい出来事であり、ただひたすら「頑張る」ことへのモチベーションを向上させる要因になる。

自分だってこの1年間、それなりに良い思いをしてきたと思う。イメージフォーラムフェスティバルノミネートなんて、全くもって予想だにしなかったし、その後のバンクーバー国際映画祭招待も、やはり予想出来なかった。「想定の範囲内」という言葉があるが、どう考えたって想定することの出来ない範囲外の出来事であろう。

だからこそ、自分はこのチャンスにかけてみたくなった。『ガクセイプロレスラー』で自分のキャリアを終わりにするのではなく、始まりにしたい。そのためには自分の環境に区切りをつける必要があった。2010年の夏頃から徐々に鬱気味の兆候が見られるようになって来た。自覚症状はあったが、合わない環境と、なりたい自分との葛藤にただただ悩まされた。いつのまにか精神科病院の前に1時間以上立っていたりした。もうこんな精神状態でサラリーマンを続ける意味があるのだろうか。自分はある人物に相談した。それが冨永君だった。その時始めて冨永君の口から『ガクセイプロレスラー』がキッカケとなり、プロに転向することを告げられた。冨永君はやはり自分に正直だった。かつての彼はその学生プロレスの情熱とは正反対に、情熱を注げないものに対する見切り方が早かった。なおかつ高校を中退し、プロレス団体をデビュー前で辞めている彼に、何となくではあるが、ヒントがもらえるような気がした。

結果として言葉ではなく、姿勢で彼から最高の助言をもらった気がした。自分のいるべき場所はここじゃない。そんな気がしながら、自分はもう一度、作品を作る決意をしたのだった。