つれづれ11(2013年12月上旬)

■だいぶ備忘録としての書き物作業を忘れてしまった。とにかくここ数日は腹が痛かった。原因不明の腹痛で下痢。そして給料日に約4分の一をキャッシングの返済に当て、早くも金がない…。と嘆きたい一ヶ月が始まろうとしている。もうこんなに金銭苦が目の前にあるとは思わなかった。ただただ今は金がないということが辛い。稼ぎがないことも、貯蓄がないことも、何か思い切った買い物が出来るわけでもなく、ひたすら貧乏であることを実感している。それに加えてあまり創造的と言えない編集作業がいよいよ苦痛に感じられて来て、本当に編集が進まなくなる。うーん、どうしたもんかと思いながら、佐藤可士和とかあの辺りのイケてるクリエイターの動画とかを見て、俺もこういう雰囲気を醸し出さなくちゃいけないし、そういう仕事を展開していかなくちゃいけないんだなーと思いつつ、やっぱりそうやったって俺の仕事が何かに取り沙汰されるわけでもなく、かといって人の記憶に残るような形で保存されるでもない映像を永遠と作らねばならないのかという一抹の不安が頭を過っている。もう映画を作るしかない。どう考えてもこの見えない壁を突き破るのは何かスッキリした形で映画にするしかない。というかあの卒業制作が一人あるきしている感じをもう一度味わなければ、もう映像を作っている意味などないように思えて来る。それくらいに対価として得られているものは今の自分にはない。カタルシスが継続しないし、プロレスの映像をしていて何か得をしているような気にもならない。しかしながら、先々週はちょっと好い事があった。あの佐藤大輔さんとお会いすることが出来た。酔っぱらった坂井さんが深夜に編集中の私に激励に来た際に食事を一緒にしていた佐藤氏と一緒に来てくれたのである。あらゆる金言を聞きながら自分がいかにインディーの映像屋かということを痛感させられた。何本作っても値段も変わらず、対価も変わらない。そしてそこで得られる成功体験も平均的になってしまった。そんなときに佐藤氏に会えたことそのものが最大の刺激であった。とにもかくも”メジャー”であったし、自らその価値を作り上げて来た氏の格好良さを目の当たりにし、自分という存在を認知してもらえたことが今、何よりも生きる糧になった。何本もVTRを作ろうがギャラは変わらない。評価もある範囲から変わらない。ならばやはり評価を是が非でも変えられるような価値創造、ディレクションをしていかなくてはいけないと心に誓ったのである。とりあえず「今成君はTwitterで難しいこと書かない方がいいよ」と言われたので、難しいことの吐き出し口はこちらにしておこうと思う。とりあえず坂井さんからの言葉の引用を…。

煽りVTRアーティスト佐藤大輔は「編集は鼓動と同じ」と言う。作品のためにつなぐのではなく、他者でもなく、同化でもなく、今そこにある「何か」と撞着していく風情である。自分とファイナルカットとの間を何度も往還しながら、既成観念から解き放たれてゆく。そこでは世間の規範はキレイに消え去って、佐藤大輔の画とコトバが誕生し、活き活きと呼吸し始める。その生命力に人々は瑞々しい元気をもらう。佐藤大輔は二人といない。

やっぱり偉大っすね。

■しかしながら映画もそれなりに見た。まずは『キャプテン・フィリップス』だ。ポール・グリーングラス先生のそのブレない作風と言って良いあのリズムカルな手ブレ映像と編集に加え、実際に素人の役者を起用することで醸し出す圧倒的な「リアリティ」。そしてトム・ハンクスが牽引するそのリーダーシップと芯のある主人公の姿が映画をなお一層ドキュメンタリー以上の何かを提示し始める。しかし同時に映画内で提示される強いアメリカ像にまた、観客に考えさせる余白をもたらすそのバランス感覚にはもう仙人のような何かを感じてしまった。『悪の法則』これもたまらない。圧倒的に悪が画面を占めている。勧善懲悪ということではなく、そこにある悪。しかしながら悪そのものが連鎖することの恐怖、そしてまた悪しか持つことの出来ない華が何とも魅惑的に映し出されてしまう。だから怖い。安易に手は出せない。だからこそ剥き出しの欲にも逆らえぬ人間の弱さか。これまで共に深夜の新宿バルト9での鑑賞。やはり深夜上映は最高だ。そして新宿武蔵野館で『THE ICEMAN 氷の処刑人』。マイケル・シャノンとは不思議な役者だ。大柄のカラダにどこか優しさなのか、それとも狂気なのか分からないその表情は何とも印象に残り辛いものであったが、本作はどうだ。冷徹に殺し続け、そしてその殺しの連鎖に苦しむTHE ICEMANを見事に演じきっているではないか。午後ロー感もgoodだった。