いぶ

映画のような人生を送るにはどうしたら良いのだろうか?
結局のところ人生は映画のようにドラマティックにいくほど面白くはならないし、また妥協の連続を強いられるのではないかと思う。

映画の中の登場人物と恋に至ってしまうというウディ・アレンの映画はまさにフィクションの真骨頂という具合に、現実は悲しいことだらけである。

劇的な瞬間を求めていて、あえてその道を踏むためには、それなりのキャスティングが必要だった。しかしながらそのキャストは僕一人が相手するには遠く及ばない。しかしその壁を乗り越える何かが必要で、それはある種の預言者でなくてはならなかった。

園さんの本を呼んだ時、自分にとって尊敬すべきなりたい偉人を設定すると良いと書いてあった。それがミッドナイトインパリみたいにヘミングウェイに憧れ、タイムスリップしてしまうなんてことだって映画では出来てしまうけど、僕らが生きてる現実には不可能なわけで。しかしながら、僕はその偉人の設定に身近にいる人を設定することが出来た。飯伏幸太というのは僕にとって過去に生きてきた偉人ともはや同等それ以上にリアルタイムに生きる偉人なのだ。

ファイト・クラブ』のタイラー・ダーデンとは主人公のなりたい自分の像であるという見方がなされている。飯伏さんが語りかける言葉や、こちらの潜在意識に働きかける行動を促す感じは一体何なのだろうか。それこそ飯伏さんこそがタイラー・ダーデンのようでもあり、映画の登場人物のようでもある。飯伏幸太に遠隔操作されるゲームというものは、ある種の映画のようなマジックでもあり、また飯伏さんが単に楽しんでいるゲームなのかもしれない。

僕はこの日、ゲーム性溢れるかつドラマティックな瞬間に出会った。いくらかそれは猟奇的な状況ではあったが、それを頭の中で映像化した途端に何と興奮させられたものだろうか。これが極私的な領域で行われる。そんな感覚がイベントでも映像でも出来たら良いと思った。ブルった。震えた。

しかしながら、ここまでしなければならない対戦相手だということも含めてとんでもない。やはりとんでもない。恐ろしい。