金じゃなくて、評価が欲しい。
ドロップアウトしたとか、そんな風になんか思ってない。
ただ闘いたいだけ。そのタイミングが今来ただけ。

自分がこれまで逃げたことに対して、それがキツかったからか?
理想と違ったからか?

自分を正当するつもりなんかない。だが異論は唱える。
これは思想闘争だ。

思想が違ったから道が分かれたのだ。
思想が違うから政党が沢山あるのと同様に人は思想が違えば、環境を変えざる終えない。だから批評があり、論争がある。

だから逃走は時に必要だと思っている。
時に「闘え」というのは非情だ。相手が戦車数台を持っていて、こちらが槍一本しかなければどう考えたって負け戦になるし、それは戦略上どうあがいても無理だ。

ある人に観客に見出されると言われた。
なら観客がジャッジしてくれれば良い。それで負けたら、負けたまでだ。

けどもうその旧態の価値観にはもううんざりんだ。
そのやり方は時代に合っていないんだよ。

でなければ若者は3年では辞めない。3年で辞める若者を矢継ぎ早に「逃げた」と言い切るのならば、思慮が足りやしないか?

そこに至る原因分析を「弱さ」で規定してしまうのはあまりに思慮不足だ。
規定しているラインが狭過ぎる。それはあまりに主観的であり、かつ前時代的な意見でしかない。だから他罰的な姿勢は息苦しくさせるんだ。

僕が闘いたいのはそう判断してしまう思想なんだよ。
そんな思想が多くの若者を蝕んでいったんだ。強者の言葉が聞きたいんじゃない。
弱き者の声が聞きたいんだ。

小さい言葉を伝えたいから映像をやっている。それが形に出来たのが卒業制作だったが、それを更新出来ない「弱さ」こそが今の自分でもあるのだ。

自分を見出してくれた人が僕の闘う相手を示してくれたが、まさにそうだった。
ハッキリと分かった。自分から能動的に尊敬していった人たちとは明らかに異なる。

結局のところ死んだらおしまいだから、死なない程度にするしかないんだけども、
けど俺は今、闘いたいものが明確になった。

他罰的な言葉は僕の心には残らなかった。
自分の絞り出した言葉でさえ、苛立ち、罰そうものなら、もう見られないようにしてしまうしかないし、違う道で生きるしかない。もう僕を見なくて結構だと思う。けど何で僕を罰そうとするのか?

結局のところ目障りなんだろう。
とても分かる。

だからとことん闘おうや。どっちが正しいのか決めれば良いじゃないか。

他罰的な言論で幸せを感じれるならそれで良いけど、もう僕はそれに耳をかさない。言ってしまえば、僕は他罰的な人がそうでなくなる世界を作ってみたい。そんな息苦しさをあえて作ろうとする権力願望を駆逐してしまいたい。