一億総ツッコミ時代

一億総ツッコミ時代 (星海社新書)

一億総ツッコミ時代 (星海社新書)

一億総ツッコミ時代』槙田雄司
を読んだ。ここ最近、新書を読んでいると、ここ数ヶ月の自分に当てはまる事例が数多くある。もちろん現状を脱したいからだという理由でそのような本を買っている部分があるが、自分自身がそのような体験を長期的にしていると、その本に書かれている事例はより自分の体験談のように迫って感じられる。だから、先日のフリマで売った自己啓発書はどれもピンと来なかったことものばかり。それは事例として自分を見つめていない状態で尚かつ、安直に答えを見出し、苦しみから脱出しようとしていた時代のものだから(僕のテレビ局時代)

この本のあらすじを読んでいて、今の自分の状態に近いと思った。総ツッコミ状態、日夜監視状態におかれ、何か発言をすることで揚げ足を取られては、精神的に参ってしまう状態である。

これはまさにSNSを中心とした総ツッコミ時代、総評論家時代特有の生き辛さでもあろうかと思う。何かにつけて発言をチェックされては、理詰めでそのツッコミを受け続け、発言の窮屈さが「怯え」を生んでしまう。それは見えないストレスとなり大きくなっていく。

しかしながら、この本はそんなツッコミ人を容赦なく突っ込む。ツッコミ人への正当性を疑い、かつ「ボケ」に生きる人たち、つっこまれてしまう人たちへの助言となっている。

Twitterは確かに面白いツールではあるが、使い方を誤れば暴走ツールになる。けど「使い方の指南書」があるわけでもなく、結局のところ各々が使いたいように使うのがTWitterなのだが、僕がある時期を境にTwitterのつぶやきを控えるようになったことがあった。それが複数からのツッコミの疲れであった。何かと感想を書いては突っ込まれ、自分への自信を失い、神経症のような症状が起こる。そんなんなら、書かない方が良いという結論にとりあえずは達したのだが、ツッコむ側の心理やツッコミで正当性をアピールする人って一体何が面白いんだろうと思うようになっていった。結局創作的な何かを発生させているのは突っ込まれている側なんだと。

で、この本の中でテレビのバラエティ文化がそうさせていった背景を解説しているんだけども、まさにこの3年で精神的疲弊に追い込まれたのがテレビ人のツッコミ体質なんだと分かったのである。そりゃ辛いはずだ。テレビ(バラエティ)の世界観を常日頃から要求され、日常的に波風をたてようとするツッコミに巻き込まれりゃ精神疲弊も起こるって。その背景に松本人志になりたい願望というか、ツッコミ側の潜在意識が書かれていたのも頷ける。けど時代は変わった。もうテレビの演出が受け入れられなくなっている。テロップの過剰なツッコミ、他罰的な演出はイジメのような構造を発生させ、入り込めない。逆説的にそんな体質の人に熱狂の磁場は発生せずに、アイドルのような純な感情やそれらに「夢中」になる、なれる状態へのドキュメンタリー性に流れていっていること。そして「夢中」の強さと同時に、「夢中」状態だからこそ、ツッコミ人からやっかみを受けるということも。

ツッコミ人のTLの気持ち悪さはなんだろう。自分の正当性というか安全圏域内で自分独自の法をかざしているようなあの感じは。さらに言うと「面白い人」として見られたいという自意識が見え隠れする。キチガイなことを言ってる俺ってハイレベルで面白いでしょ?という自意識。けどそんな自意識って官能的じゃない。そういう点から見ても薄々気付かれているのではないか。「面白い」「レベルが高い」と思っている、思われたい願望そのものが何か食傷的な「つまらなさ」を表出させてしまっている。

自分が「ガクセイプロレスラー」を撮ったとき冨永君に感じていた面白さって彼が面白いことを言ってやろうという気概が特にあるわけでもなく、彼らの生態の中で自然発生的に生まれてきたものだった。そんな学プロの「ナチュラルボーン」な部分が自分の生活圏の中でなくなっている気がしていった。

松江監督が監督は自分から呟くのではなく、呟かれるものを作るべきだと以前言っていた事があった。この本の中でも自らが「ボケ」になることで突っ込まれる人間になることを推奨している。本当に魅力ある人は「呟く人」ではなく「呟かれる人」だ。

そんなとき、「呟かれる自分」が何だか惨めに思えてきた部分があったのだが、この本を見て随分と救われた。死んだときに「突っ込んでばかりいた人」と「つっこまれていた人」だったらどちらが良いだろうか。

結局これは生きやすさの問題なんだけど、どうしてあえて空気を汚そうとするんだろうとか。結局のところ批評家にならずに、創作者として凛としていなくてはいけないし、そのバランスを保つのって超大変だ。

けど実際のところ、自分が居心地が悪いなと思った瞬間には「バラエティ」のノリを強要されることが多かった。以前の会社や、大学のクラスでもそういったノリからはみ出ると異物排除の作用が働いてくる。何故か「ナチュラルボーン」がイジメの対象となり、総ツッコミ化した集団の可虐的なツッコミで精神を病むといったことだ。

しかしそんな中で「道化」であることを推奨してくれることは救いだ。ピエロになることは何も恥ずかしいことではない。そんなことを肯定させてくれる一冊。