『桐島、部活やめるってよ』

新宿バルト9桐島、部活やめるってよ』監督:吉田大八
何かとTLをにぎわせた本作をようやく見た。作品の演出に関することでも多くのことでハッとさせられることもあったが、自分自身への喚起力がもの凄い作品だったために、この作品を通じて自分の事について考えてみたい。

参考になるブログがあってそれにこの作品の解説がばっちしある。
http://d.hatena.ne.jp/samurai_kung_fu/20120819
http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20120812

校内ヒエラルキー、高校生活においては圧倒的に世界は狭く、またその中での空間はどれだけ残酷かということに無自覚に時間が過ぎて行っているように思える。僕が過ごした高校時代も共学で、様々な部活動があって、17クラスあるマンモス校だったから、スクールカーストは意識しなくても、存在していた。

登場しないキャラクター桐島は、このヒエラルキーの上位にいた存在。成績優秀で、バレー部のエースで、どうやら学校で一番人気の女子とつき合っている。その桐島が突然いなくなることで、突然ヒエラルキーのバランスに異変が生じ始め、些細なドラマは動き始める。

自分は高校時代、部員が3名しかいないレスリング部に在籍した。華やかさはゼロで、目立たず河原を走って、トレーニングルームの隅で地味にタックルの練習をしていた。存在は知られるようになったが、隣りで活動しているバスケ部や陸上部といった花形の部活動とは明らかに異質だった。どう考えてもモテなければ、その部活の中では「ドラマ」は生じなかった。例えばバスケ部にいれば、もう必然的に誰かが女子マネージャーとつき合っている。そんな変化が生じようはずものかった。

同じ部活の友人Sは体操部のKさんが好きだったが、Kさんもまた花形の女子選手で、またそれに見合う美貌を誇っていた。Sは身体も大きく、ルックスも悪くなく、成績も悪い方ではないし、爽やかな好青年だったが、一点だけ誤ったのは何故かスクールカーストの中で、下部に存在するレスリング部に入部してしまったことだった。恋愛のことにまるで関心のないプロレス少年の私は、まさにこの映画の中でいうところの映画部だ。オタク的に生活することで、全くもってこの高校生活のヒエラルキーに影響を及ぼす生活をしなかった。むしろ無関係に、意識することなく生きていた。それだけプロレスに夢中だった。Sの恋愛話は面白いものではなかった、好きな人がいることへの嫉妬とかそんなことはなかったが、別にそんな話をしたいんじゃなかったから。Sは何度もKさんにアタックしているがいずれもフラれている。Sをふる理由は見当たらないが、Kさんは花形の部活の男子と交際を続けていた。

自分たちが馬鹿にされていたことは分かっていた。隅っこで何か変な事をやっている部活がある。そんな目線は僕らに注ぎ続けられていた。明らかに不細工なバスケ部のヤツが僕を笑っていて一度取っ組み合いの喧嘩をしたことがあった。状況は変わらなかった。

結局、自分たちの存在が校内ヒエラルキーの構造を変えることはなく、僕らは卒業していった。

そのまま僕は、そんなヒエラルキー自体を脱するために美大に行こうとした。美大に行けば、大学の中でダサいというコンプレックスそのものから逸脱出来る。そう思った。結果2浪したんだけど、その目論みは成功した気がした。実際大学デビューは早くて、ヒエラルキー下部にいたというオーラは隠せていた気がする。

だが、それをまた学生プロレスというジャンルがまたそうさせる。そう学生プロレスこそこのスクールカーストを多分に可視化したジャンルだった。結果的に僕らはそんなスクールカーストを逆手にとり学生プロレスサミットといったスペシャル興行で、ヒエラルキー下部にいる人間でしか体感することの出来ない青春を過ごして行ったわけだ。それを結果的に映しとったのが卒業制作でして。


で、桐島はそんなヒエラルキーを、複数の視点で描いちゃってるから凄いのね。リア充を憎む非リア充っていう構造じゃなくて、全員が平等に、そしてその時間、構成、編集が実に映画としかいいようがないラストに結実していく。

やられたなとおもった。青春の残酷さがそこに如実に出ちゃっていて。つまりリア充もモロいし、メジャーサークルにいる人たちも、もの凄くモロいことが桐島の不在で露呈されていく。そこにメスが入ってしまう映画ってちょっと見当たらない。上手く書けないのだが、また検証を今後も続けて行く。