■母の七回忌だった。何だか色んな事がピンと来た。何故この二人の間に生まれたのか、何故一人っ子なのか、何故この名前なのか。全てがピンと来た。それは直江津に来る道中のとある出来事でもピンと来た。何故ドキュメンタリー映画を作ろうとしているのかピンと来た。

親父のスピーチは立派だったと思う。芸術的感性に優れていた母と、真実を探求する願望のある父、それの間に生まれたのが自分で、母が芸術作品を創る作為は持ち合わせていなくて、父がそういうものを持とうとしても、挫折してしまった背景、そして映画館で出会ったという馴れ初め。全ては一本に繋がった。

松江さんが親父さんが亡くなって一本の映画「ライブテープ」を創ったこともきっと近い感覚なんだと思う。

オカルトな出来事は全てが信じられるわけではないけど、化学的に実証出来ないが、確かに感じる血筋や、その流れを強く感じた一日だった。つまりこういう物語だったんだということ。自分はこういう物語を生きるために生まれてきたんだと腑に落ちるということだ。そういう作業が法事という今回の七回忌だったと思う。何となく今も母に見守られているなと実感出来た一日だった。

夢見がちな母の性格はロマコメ志向な自分の性格に引き継がれているし、父の会社員として理不尽や納得のいかないことに迎合出来ない性格や、真実を探求しようとする精神性を引き継ぎ始めていると感じた。結局のところそういう作業はドキュメンタリー映画を創るということに全てが一本に繋がっていく。

夢見がちとはどういうことだろうか。それはシニカルな女性を好む自分の性格とどう関係があるのだろうか。こんなリアリティとイメージの時代に、ロマンチシズムを持ち合わせてはいけないのだろうか。そんな映画館の闇にスクリーンに自己を投影していたかつての母の性格と、私がまさに深夜のバルト9で浮世離れした行動をとっていることはさして変わらないだろう。母はよく「地に足が付いていない」と怒られていたそうだが、その辺りはあくまで低予算のドキュメンタリーを志向してあくまで地に足を付けて表現をしようとしている自分が父親の性格でカヴァー出来ている点かもしれぬ。

何はともあれ、今年のテーマはロマンチシズムなのだ。たぶんこの夢なき時代に、多くの人が「安定」を求める時代に夢見がちな僕は、やっぱり夢を見たいと願い行動するのだと思う。

だから『ガクセイプロレスラー』の続編はまさに夢見がちな監督が、夢を見る事なく現実を選んだ主人公と介在することがテーマなのだ。夢と現実が融合するのか、しないのか。若者は現実と安定と地に足を付ける事が、本当に理想と捉えているのか。何故夢見がちな人が減ったのか?夢見がちな人はインディペンデントな生き方しか出来ないのか。そんなこぼれ落ちた夢をもう一度拾いに行く物語なんだと思う。

■映画を創る動機、創作する動機には何故に「生と死」が強く因果するのだろうか。『人生はビギナーズ』という映画もやはり作者の父の存在が関係していて、強くその死生感が出ていた。何故そのような創作を人は残すのだろうか。自分は家族を題材にすることはたぶんないだろうと思う。自分の家族にカメラを回す事なんてこっ恥ずかしくて出来ない。だがそれらの出来事が表現へと向かうその無意識下の行動は、映画監督の本領発揮なのかもしれない。結局人間はあっさりとゾンビ映画スプラッター映画の死のように一瞬で死んでしまう。そこに生じる死などどれだけ不条理で、無感動なのだが、そこにどれだけ意味を見いだせるのかが勝負であり、どれだけその部分にドラマティックに人生をビルディング出来るかが勝負なんだと思った。