■6時半に起床。そのまま中川君はタクシーを読んで、取材に向かう。途中まで一緒に乗せてってもらう。タクシーの運転手さんと会話。「名古屋は排他的ですよ。」「20代のうちに貯金なんてしてもしょうがいない、金は使った方が良い」なんて有意義な話をさせてもらう。僕は中川君に良くしてもらってるから彼に貸しがあって、未だにそれを返せていないと話すと「友達なんだから、良いんですよ。一杯甘えた方が良いです。中川君もそんなふうには思っていないですよ。」と言われて、また泣きそうになる。情けなさと感謝と甘えが同居しながらも、けど友達に甘えられて何とか生きているし、そういう性分である自分を受け止めようと思った。だから貸し借りの問題じゃなくて、自分が創りたいものを社会に提示して、僕は恩返しをしないといけない。ハッキリそう思った。それがこの名古屋時代に決着を付けるときにもなる。

■名古屋シネマスコーレ『KOTOKO』監督;塚本晋也
想像していた以上に痛みが伝わる映画で、TETSUOシリーズから続いて塚本作品のテイストは一貫していることをその画面と、最高の音で再確認する。この作品のテーマは明らかにそのcoccoの強い身体性から放たれる母性であり、監督の身にこの作品を創らねばと思わせる出来事が起こった事を強く印象付けるものだった。そういう意味で創られた意味は「人生はビギナーズ」に近い。荒々しいその手振れを意識的に取り入れる手法は塚本作品特有のテイスト。そこで起こるやり過ぎくらいの手振れには、穏やかさとは無縁の塚本さんの覚悟のようなものが見え隠れする。そういう意味では一定の高いテンションで撮りきっている園さんと似たような特徴がある。これはやはり8mm出身の人に非常に顕著なのだが、奇麗に映像を撮るということはこの際二の次で、もっとも大事なことはその物語を牽引するテンションや切迫した想いをのせるという方法だったりする。実際塚本さんのフォロワーにはまさしくダーレン・アロノフスキーギャスパー・ノエといった人物像があり、それぞれが互いの影響を受けつつ、人間の痛みやそれこそ欺瞞のない心理に到達しようという心意気が見えるのです。中には構成や脚本上でそれらを優先させるため、突っ込みどころを生じてしまうケースは多々あるのですが、良い意味でも全体としてアマチュアリズムというか8mmで製作しているテンションを忘れていない。オフビートとは真逆のそのテンションはどこか人間の狂気に迫りながらも、魅力ある作品として何度も見返してしまう作品を恒久的に作り続け、名を残していると思う。

今作の宮台さんの解説が素晴らしかった。母性を巡る話と終わりなき日常を視野にいれた、女性の強さ。

■昼からバスに乗って東京に戻る。14時に乗って17時半に到着。あっという間。思っていた以上に距離は感じず。この距離を通っていた就職活動とは僕にとって何だったのか。新幹線代すら捻出出来ずにひたすらhttp://www.holic-mag.com/hogaholic/top/index.php小便を我慢して乗車していたあの時のハングリーさを思い出す。今こそシューカツのときの自己診断や他己診断をやるべきだろう。

■BD『25年目のキス』監督:ラジャ・ゴズネル
ドリュー・バリモア製作の本作。この作品を創らねばならなかったドリューの切実な想いがその演技、表情から伝わってくる。よくある学園階層の話だけど、覆面記者として学園に潜入しながら、もう一度青春を取り戻すその過程は、間違いなく誰もが持ち合わせているだろう「あの時あーしておけば良かった」という心をくすぐらせるし、今の生活ももう一度輝かせたいという衝動を与えることに成功している。輝いていなかったドリューがフラッシュバックでその矯正した歯を見せ、過去の冴えなかった自分と、今まさに遅れて輝いている自分との対比は青春はいつでも取り戻せることの証明であり、勝ち組と負け組だけで判定出来ない、恋している人間特有の強さなのだと思った。脇役も個性的なキャラ立ちが序盤から炸裂。エンドロール、オープニングのモーションと出演者の肖像写真が思い出アルバムのような演出をもたらせる。可愛い作品だ。あとはドリュー自身が牽引するその陽性は圧倒的な作品の魅力だと思いました。これは製作者と主役を兼ね合う状況ではマストな状況のようにさえ感じます。