『226』『いつかギラギラする日』

■家にwifiが開通しました。

■DVD『ヒストリーオブバイオレンス』

■DVD『デス・プルーフ
注視して見たら、どうでも良い会話シーンもちゃんと巧妙にカットを割っている。このカット割りが、「退屈」を「退屈」にしていない一つの要因かもしれない。黒澤清が言っている視点で初めてこの作品を見れたのかもしれない。とにかくカットをしっかり割っている。良い仕事をしているということだ。面白いことがにじみ出る瞬間。一体それは何故か。

■銀座シネパトス『226
悲しき歴史の革命。この時代で起こした未遂に終わった革命。武力でまだ変えられると思っていた時代なのか。ただ叶えられなかった革命を思いながら、自決していく男たちの見る光景は、家族たちとのありふれた風景だった。

これが数十年後には『ソーシャルネットワーク』になっている。革命の在り方は変わってしまった。だから映画も変容する。維新のありかたが変容したんだと思った。

■銀座シネパトス『いつかギラギラする日
全く色あせない。何故だろうか。20年前の映画とは思えない。これは一つにテンポがあるのではないか。編集のテンポ、編集のキレ、カット数が現代の映画のテンポと遜色がない。昔の映画という感じがしないどころか、俳優たちのキレ、演技はそのままあのときのまま、当たり前だが。そういうことなのだ。自主映画を撮るということは、こういう手法を積極的にとらなくてはいけないのだ。『クライシス北の国から』を見たときに思ったが、自主映画が商業映画に勝てるためにすべき最短のルートは「カット数を重ね、退屈させないこと」だという学生時代の結論にこの作品はまさに、それらの作品が10億を越える予算で持っても、そのような手法をとったのだから、逆説的に言えば、貧乏でもそうすべきなのだ。

突っ込みどころは多数。だが良い映画というのは、それらの突っ込みどころを潰すことではないのだ。それらが愛おしく思わせれば勝ちなのだろう。そんな点が随所に登場する。改めて荻野目慶子の狂いっぷりは異質だ。全く現実感のないキャラクター、それはもうファンタジーやフェイクの要素たっぷりである。しかしこんなケレン味がこの映画の似合うではないか。全くもってこれは今の映画と違う志向だ。今の映画は徹底して「リアル」を求めるが、こんな「フェイク」感を演じられる女優がいないからだろうか。それにしてもぶっ飛んでいて笑ってしまって、そして切ない。こんなヒロインは見た事がない。

そしてショーケンがカッコいい。もう今の日本映画では無理だ。どうあがいても無理。どんな俳優が出ても無理だ。あまりに素晴らしいので、諦めたくなる。残念だ、こんなハードボイルドが日本にあったことをひたすら誇りに思いたくなる。なので、僕らが目指さなくてはいけないのは、デジタルでこの美学に近づくことだ。せめて近づきたい、そんな思いをビデオで切り取ることじゃないだろうか。

もう一度ハードボイルドというものを追求したい。勘違いでも良いので、そんな男臭さ、あの頃の美学が、今の時代の若者にとって必要なのだ。僕らは闘う相手がいないだけなのだ。不在なだけで、だからせめてもの姿勢を見せれば良いではないかと思ったりした。

ストップモーションで出てくるカットの一つ一つの良さ。それは印象に残る画だ。これらをサービス精神良くエンドロールに配置するセンス。冒頭の昔風のワイプのテロップ。それらが世界観とマッチする。そんな世界観が今は何故打ち出せないのか。

何となくやりたい世界観はね、
ハードボイルドな主人公(日本・香港映画)+ラブコメ的女の子(アメリカ)の融合でしょうか。はい。セルフ・ドキュメンタリーでハードボイルドを描くことは出来ないのか?、もしくはそれを追い求めるような映画って出来ないのかな?あれこれ考えてみたいけど。そういう大人になっていく映画っていうか、

■『いつかギラギラする日』は大学でヲノさんにDVD借りて以来だった。ヲノさんは『男たちの挽歌』とか『友は風の彼方に 』とか男映画ばかりかしてくれた。そんな『いつかギラギラする日』は上司である古武先輩のフェイバリットムービー。大学時代の点がちゃんと線になっていて妙な感じ。結局突き詰めると、こういうこういう世界観を如何に「自主」で打ち出せるかなんじゃないか。自主映画で、ドキュメンタリーでハードボイルドな世界を如実に打ち出したものなんかなかなか見た事がない。