『ラブ・アゲイン』『50/50 フィフティ・フィフティ』『恋の罪』

■シネマート新宿『ラブ・アゲイン』監督:グレン・フィカーラジョン・レクア
久しぶりにオールタイムベスト級のラブコメがきたと思う。とにかく見終わった後にとんでもない多幸感とラブコメというジャンルに対する敬愛が湧いてくる。
全編周到に練られた脚本。ところどころの台詞や、茶目っ気のあるやり取りがとても愛おしく見える。作品が何故愛おしいと思えるのか、何故その作品なら何度も見たいと思わせるのか。『ラブ・アゲイン』はそんな部分によって覆われておる。

人間の成長、そして妻という伴侶を経て家族を構成していくというベーシックなストーリーだが、熟年離婚というワードが先行するように、どこかでその夫婦関係はいつしか冷めきってしまう可能性を孕んでいる。いつもあったデートもときめかずに、記念日すらを忘れて、お洒落もせずに次第につまらない男になっていき、いつのまにか妻は寝取られている。

一方で仕事も、女も順風満帆。自分の口説き文句があり、いつもナンパをして、一見すると大変リア充に見えるようなそれも、実はそれらでは獲得することの出来ない何かに気付き、喪失感を感じるようになる。(周りかは喪失感として見られないことがほとんどだが)

そんな現代で言うところのリア充と非リア充とも言うべき分かりやすいテンプレートが、巧みな構成と人物のアンサンブルを引き起こしていく。
役者陣の良さをここで書くのも野暮なくらいに素晴らしいのだが、とりわけ自分でも参考にしたいなと思えるプロットや気付いた点を箇条書きにしたい。

■キャラクターの多さもあって、どんな観客でも感情移入出来るキャラクターが必ず一人はいる点。(浮気をする男というヒール的な役柄も含めて、それらは決して絶対的なヒールとして描かない。むしろそんなキャラでも愛すべきキャラとして迎え入れる余韻がある)

■誰しもが経験しそうな些細な共有事項をユーモラスに可愛く描いている(子役が好きな人にオナニーを見られる。服はGAP以上じゃなくちゃ! マジックテープの財布はダメ! そんなスニーカーは履くな)など

■恋愛において何か試練を迎えたとき、人はそのことについて誰かに相談せずにはいられなくなる。そんな時誰かのアドバイスを思わず鵜呑みにしてしまうあるある。(クラスの恋愛マスター巨乳女子にエロ写メを送れ!とアドバイスされたり、服装を直されたり)

秀逸なラブコメには良き相談相手がいる←これかなり重要と見た!

■ラストシーンのスピーチでどんでん返しがある。前半であるキーワードとなる言葉がある(本作では人生には運命的な伴侶に出会う云々の内容。それが劇中で当てはまらないと分かるが、実はその言葉がラストに向かって一つの答えを見いだす。)

■世代間を越えて励まし合う。10代、20代、30代、40代とそれぞれの世代が登場する。だが10代が40代に何か強烈なメッセージを与えるといった出来事がある、逆もしかりだが。これによって言葉や信念、概念といったものが世代や人種、性別の壁を越えたときに物語は強烈な足跡を残す。

■オムニバス構成的、全く関係ない人間関係がラストシーンで、意外な形で遭遇しあう。登場人物を断片的にさせない。

■下世話なエピソードを爽快に笑い飛ばす!下ネタでも喋りの口調ややり取りが上手くいけば愛おしいシーンに生まれ変わる。

何か考えればどんどん出てくるのだが、少なくともこの作品がベーシックな作りであることは間違いないんだけど、奇跡的な噛み合わせだと思います。





新宿武蔵野館50/50 フィフティ・フィフティ』監督:ジョナサン・レヴィン
かつての難病もの映画が如何に「泣かせるため」の映画として広告代理店的な発想の作物であったかがこの作品を通して改めて分かる。
『恋空』をはじめとした難病もの映画は若者に人気のある俳優、タレントを効果的に排し、その生温い描写と扱う病気に対するノンリスペクトっぷりにただただ腹を立てたくなる内容だった。無論そんな作物に翻弄されてしまう大衆も情けない。そんな安易なアホプロパガンダは徹底してこき下ろしてこの世から抹殺せねばならない。

50/50 フィフティ・フィフティ』はそんな日本にはびこる24時間テレビ的な感動から、ほど遠い作品。癌に診断されながらも、変わらずにナンパに行こうと誘うセス・ローゲンらがあくまで普段通り「普通」に接する事で、その病気を通して何を学び、何を見るのかということを視覚化していく。パンフには『木更津キャッツアイ』の引用もあるように、癌を笑い飛ばす作品として「日常」や「笑い」いった「普通」の要素の力強さを浮き彫りにしてくれる。

キャラクター設定も上手い。それぞれのキャラの特徴を言葉ではなくものの数分で見せる。冒頭のランニングで、信号が赤になるとしっかり立ち止まる主人公、車の免許は事故率が高くなるので取らないといった安全堅実志向の説明は十分になされる。そんな彼女の浮気を見つけた友人のセス・ローゲンがお調子者特有のテンションでその現場を写メで撮影し、「法廷に提出」なんてやりとりが当たり前に行われる。そんな日常性を突き詰めたプロットが、作品内部にあるリアリティと作品への愛着を浮き上がらさせる。

つくづく感じたのだが、『ラブ・アゲイン』も『50/50 フィフティ・フィフティ』も実にくだらない会話の集積であることが分かる。本当にその日常感が浮き足たつことなく地に足を付け「ギャグ」として機能しているんだから。それをスイングさせるポップさと、構成力とは何だろう?問いは果てない。ブライス・ダラス・ハワード演じる現代美術家の彼女が浮気をして、あげく開き直る展開はもう自分のことかと思うくらいに感情移入出来ました。そんな人物造形が上手い。あとは配置。

王道のアメリカコメディがこの2作連続観賞で本当に好きだと確信出来た。たぶんこの2作はよほどのへそ曲がりじゃない限り「好きではない」とは応えないと思う。むしろ「好き」という好感度が全面に渡っている。それはやっぱり可愛さと映画として単純にそれぞれが良い仕事をせいていることに他ならない結果かもしれない。



テアトル新宿恋の罪』監督:園子温
苦作だと思った。傑作と言い切れるほど良い映画ではないし、駄作だと言えるほどダメではない。ハネケ系かと聞かれれば、まだそこまで突き放しきってるわけでもない。パンフでも書かれていたが、案件としてこの作品は難しい題材だった。
人は攻略が難しい課題に対しては、自分自身の原点に近い方法論や18番を使って切り抜けるしかないんだと思った。園さん初期作に近い衝動でガンガン押してきたから。推測程度だけど結構辛かったと思う。久しぶりに監督の連続性というものを再認識した。初期作「俺は園子温だ!」に付随するただ詩や思いをひたすら独白していく荒々しいスタイルがここに来て研ぎすまされることなく画面に覆い被さる。しかしその方法論ではやはり「良い映画」は生み辛いのだ。映画としての機能、プロットから逸脱した実験映画の類いとも違う、整合性のとれない、実体を掴みきる事の出来ない「詩」はその言葉にインスパイアされたテンションや映像ででしか勝負することが出来ないのかもしれない。

園さんの初期作のような作品を自分も作った事がある。主演、監督、その他全ての業務は自分である。自分の内的衝動を駆り立てただけの作品は今、見るのがただ恥ずかしくなるような演出ばかりだ。いや何も引き出しなんてなかったひたすらテンションで叫ぶしか出来なかったのだ。本作はそんな状態に再び追い込まれる事となった貴重な作品だ。油が乗り切っている時期でも、マスターピースを毎度作り上げることは難しい。どこかで疑問が残る作品が生まれてしまうものだ。

その他感想は空中キャンプさんよりhttp://d.hatena.ne.jp/zoot32/20111116