『名前のない男』

■時間の経過が早い。恐ろしい。サラリーマン的日常に対して何かそんな時間軸に抵抗していきたいが、残酷に時が過ぎていく。日常の仕事で、単純化する以上に工夫を求めたい。

■オーディトリウム渋谷『名前のない男』監督:ワン・ビン
ワン・ビンの作品の中では究極形だと思った。

柳下さんの文章を引用すると

王兵の2009年作品は一人のホームレスを追いかけたドキュメンタリー映画である。ただしホームレスと言っても都会に住んでいるわけではない。中国の田舎で原始人のような生活をおくる男である。

洞窟に住む男は泥水を汲んで、枯れ木を集めて熾した焚き火で得体の知れない鍋を食べる。素手で牛糞をすくって集めると、なけなしの財産であるシャベルを使って道路脇の空き地(ほぼ確実に彼の持ち物でも何でもない、ただの空き地である)を耕す。男は一言も口をきかず、カメラもまた何も言わずただその姿によりそう。

やがて夏になると、その空き地には細々とトウモロコシが生えている。つまりこの男は農民だったのだ。だかホームレスの農民などというものがあるのか? 男の節くれだった手のアップで、王兵は生きることの根本を描き出そうとするかにも思える。

収穫したカボチャを食べる前、男ははじめてカメラの方を見て、一瞬、笑みを閃かす。

http://imageforumfestival.com/archives/2470

とある。やはり洞窟の中にいた男はホームレスで、また何故その男が田舎の洞窟で原始人のような生活をしているのか?ということ自体は説明がされていない。街にいると思わずホームレスを凝視してしまうことがある。その格好に目を奪われるのか、それとも生活なのか、それとも自分自身との比較として見るのか分からない。しかし目を奪われる。目を奪われるという地点で注目をかっさらっている。本作はそんな街中でいるそんな視線をひたすらスクリーンに投げかけてしまう。何故こんなに汚い格好なのか、衛生的なことは大丈夫なのか?どんな思いなのか?そんな疑問を置き去りにしながら、ひたすら映画は単純行為をし続ける男の姿をフラットなカメラアイで捉えていく。

一歩間違えばバラエティの無人島企画スレスレだ。もっと大笑いをするような音楽やテロップを使って演出をすることは可能だろう。だが今作はその男をじっと見ることに留まっている。僕らが街で見かけるホームレスに干渉することなく傍観者になっているかのよう。ワンビンの意図がどうかは分からないが、僕には傍観者としての視点という言葉が似つかわしいと思った。ドキュメンタリーにおける監督の役割とは何だろう?積極的に被写体と関わる事なのか?被写体に干渉せずにただ冷静にカメラを回す事なのか。ワンビンは後者に回る事で、現実に進行する時間や、現実に起こるあまりに生々しい問題点を突きつけてくるかのようだ。

僕が映画は娯楽ではなくてはならないと思っていたのは、美術大学の一連の主張のない作品群であった。アート系とよばれるものの作品からは表現を堪能した上でのカタルシスがないことで、私はそのような価値観をある部分で否定してきた。学生プロレスこそが学園祭最大の見せ物であり、観客を湧かせてきた催しだという、一方的な誇りのもとにそれらの学生アート作品から距離を取りつつ、僕はエンターテイメント的な手法に活路を見いだしてきた。

しかしだ、何故ここまでワン・ビンの作品に惹かれるのか、いや何故これを見なくてはいけないという気持ちに駆り立てるのは何なのか?それこそが僕自身の葛藤だった。

ワン・ビンの作品のあの衝突なエンディングはカタルシスではなく、疲れをひたすら突きつけてくる。そんな方法論は僕には怖くて出来ない。観客に退屈と思われるのはただでさえ怖いし、そのような方法をとることで「作家論」を身につけても自己弁護出来ない気がしてしまう。だが、ワン・ビンには全くもってそのような恐れを感じない。そこに一つの頑固な何かが潜在的に隠れているようだ。

この裏返しの疲れは、ビールでも一杯飲みたくなるようなそれではなく、もうさっさと寝たいと思わせるような疲れを与える。しかしこの疲れは、その疲れの中に観客が思考する猶予をきっちりと作っている。だから作品を語りたくなるし、考えたくなる。

『名前のない男』は食を求めるために何もない田舎を歩き、雑草をむしり、スコップで土を彫ったり男の姿、ただ一人のドキュメンタリー。その存在はドキュメントというより、劇映画のような静けさやアプローチにさえ見えてくるほどにシンプルだ。ひたすら洞窟の中でたかるハエの音が凄まじい。そしてそのハエと紛れもなく同居してしまっている老人も凄まじい。馴染み過ぎというか、もうハエの存在が友達と言わんばかり。

家に帰らず事務所で暮らしのほとんどを完結している自分と、本質的に変わりはないのではないか?とも思えてしまうが、老人の周りには本当に現代の情報やツールは何もない。果たして彼は人間らしさという部分で正しいのか?それとも人間であることを放棄してしまったのだろうか。あまりに動物的な行動原理に基づいた「人間」の行動は我々現代文化人にひたすら問いかけを与えてくる。コンビニであっという間に食料が買えてしまう時代、汚くてもすぐに身体が洗える家屋のシステム。人間は人間らしく尊厳を求め進化してきた。が、故にまたその中で幸福のあり方や価値観も、一つの定義では捉えることの出来ない多様性をもたらしてきた。

うーん、こんな映画を見た日には、自分なんか何かを放つ主張なんてあるのだろうか?と首を捻りたくなってしまうのでした。

僕が作るものの作品論なんて、、、と無力さを痛感する。